シンアスのお話

□バレンタインのある日
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■ バレンタインのある日 ■





 薄い雲が遠くで広がる空は、どこまでも青く染まっている。
 心まで染めるような青空を眺めながら、俺はリードを思い切り引っ張られていた。
「♪〜〜」
 澄み切った空気に溶ける音程。それに交ざる自分の溜息。
「はぁ……」
 犬の鼻歌なんて初めて聴いた。
 この呆れるほどに上機嫌な犬は、心のままにぐいぐいと進んでいくのだ。
 これでは散歩しているのかされているのかわからない。
(それだけ散歩へ行きたかったってことだよな……)
 今朝のことを思い出した。「今日は買い物無しでどこへでも好きなところに付き合ってやる」、そう言ってやった瞬間の輝かしい犬の瞳。
 多少なりとも罪悪感を覚えたものだ。
「♪〜〜♪〜〜」
「……」
 どこまでもご機嫌な犬を後方から見下ろす内に、俺はなぜだか、次第に、笑いが込み上げてきた。
「……っ」
 これは、あれだ。
 面白いとかおかしいとかではなくて、可愛い奴だなとかそういう笑みで……
「……。」
「――あ」
 歪む口元を隠す俺に気づいたのか、犬がいつの間にか歩調を弱めて振り返っていた。
 視線が痛い。
「あー……。あ、いったいどこに向かって歩いてるんだ? こんな道、俺は知らないぞ」
 笑ったまま、俺は誤魔化すべく問い掛けた。だが、口から出任せなわけでもない。先ほどから犬の目的地が気になっていたのも事実だ。
 しかし、犬は答えず先を歩いた。時折、何かを探すように鼻先や両耳をヒクヒクさせ、先へ先へと進んで行く。
「お、おいこら、どこへ行くんだ?」
 こちらが身を任せているのをいいことに、犬は平気で私有地の駐車場や空き地を突っ切っていく。俺は犬の先導に着いて行く他なかった。
(ちゃんと帰れるんだろうな?)
 変に回り込む犬のおかげで、方向感覚はすでに危ういのだ。家の方向がわからない。

 そんな俺を嘲笑うかのように、犬が突然走り出した。
「――え?」
 そう。
 走り出したのである。

「シン!?」
 いきなりのことにリードが手からすり抜けた。犬の姿が十字路を曲がって消えていく。
「おい、シン!」
 慌てて追いかけるものの、道を曲がった先に犬の姿は無かった。
「な、なんで」
 唐突に起こった信じられない事態に、俺の頭は真っ白になる。
「――……ッ!?」
 が、突如伸びてきた手が俺の口を塞いだ。
 背後から現れたその腕は、俺の身体を羽交い絞めにしてアパートの入り口らしき物陰へと引きずり込んでいく。
「んー! んんー!!」
 これはなんだなんだなんなんだこれは!? 強盗か誘拐か!? 散歩中に金目の物なんて持ち合わせていないし独り身の俺に身代金を請求する相手もいないぞ!?
「んんん……ッ」
 とにかく肘鉄でも喰らわせてやろうと思ったのもつかの間、腕の持ち主の顎が肩口に押し付けられた。
「シーッ シーッ」
 どうやら俺を静めようとしているらしい。
「……」
 ――人さらいは俺の飼い犬だった。
 今度は怒りで暴れだす。
「んんー!!」
「わ、ダメだって! もうすぐ来るんだから!」
 必死にもがく俺に、何やらわけのわからないことを言う元犬。
 仕方なく大人しくしてやると、道の向こうから近づいてくる気配がある。
(誰だ?)
 俺はヒト型になった犬に口を塞がれ抱えられたまま、静かに道を遮る目の前の壁へと耳を傾けた。




「……あの人なんて老若男女問わず、すっごい数もらってんのに」
「キラはモテるから」
「アンタもだろ。受け取らないだけで」
 アスファルトを踏みしめる音。
 並んで歩きながら話している二人の声が聞こえる。
「受け取れるわけないだろ、気持ちに応えられないのに」
「あー、アンタ宛てのは本命チョコばっかりだもんなー」
 どうやら友人同士の男が二人、歩いて来るようだ。どんどん声が近づいてくる。
「……何で怒ってるんだ」
「べっつにー」
 どうもバレンタインのチョコレートについて話しているらしい。そういえば今日はバレンタインか。
 すっかり忘れていた。
「…………。怒ってるじゃないか」
「つーん。どーせ、オレは本命からチョコなんて貰えないし」
 だが、どうにも聞き覚えのある声……のような気がするんだが、気のせいか?
「な……っ そんなの、俺だって貰えてない……お前だってくれてないじゃないかっ」
「はぁ? オレはホワイトデーだろ? バレンタインはアンタなんだから」
 いや、それよりこれは。
「ど、どうして俺からなんだ!? いくら……そ、の……そっち側、だからといって、俺があげなきゃいけないわけじゃないだろうっ」
 これは。
「なに、じゃあオレにチョコなんてあげたくないとかそういうこと?」
 このどんどん馬鹿らしく白熱していくこの言い合いは。
「そんなこと言ってないだろう!? ただ、なんで俺からあげるのが当たり前みたいに言われなきゃいけないんだと……っ」
 まるで、この二人がまるで。
「はぁあ!? 付き合ってんだから貰えると思ってなにが悪いんだよ!?」
 恋人同士のような痴話喧嘩にしか…… ……聞こえなかったんだが正しかったのかまさか。
「だったら俺だって欲しいと言ってるんだ!」
「だからオレはホワイトデーに返すって言ってんだろ!」



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