シンアスのお話

□ホワイトデーのある日
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■ ホワイトデーのある日 ■





「ペンと紙がほしい」
「え。なんだ? 急に」

 ノートパソコンに向かっていた俺と画面の間に、シンの顔が入り込む。

「ペンと、紙」
「……、……」

 じーっと見つめてねだる元犬に自然と首を傾げるが、とりあえず俺は立ち上がった。
(教育番組でも見たのか?)
 「でっきるっかな♪」やら、「作ってみよー!」やら。シンが居着いてからというもの、ときどき我が家のテレビから耳にすることがあった。
(でも画用紙はない、なぁ)
 部屋を探さなくとも、そんなものがないことは十分把握していた。購入したことがないからだ。
 仕方なくプリンタにセットしていたコピー用紙とかろうじてあったマジックペンを取り出し、俺はシンへと手渡した。
 
「工作でもするのか?」
「んー? 書く」

 「工作」の意味がよくわからなかったのか、これから行うことをシンは答えた。
 俺は物珍しく、そのままシンの背後に回り込んだ。

「これに書く」
 シンは机に向かうと、渡したコピー用紙を机に置いてペンの蓋を開けた。そうして何かを書きはじめる。
(……。そういえば、字なんて書けるのか? こいつ)
 元犬のくせに変なところで人間並みだったり犬並みだったりするこの存在は、未だ未知の部分が多い。
 俺は興味津々でシンの手元を覗き込んだ。

(……「よ」?)

 ひらがなの「よ」らしきものが見えた。しかし、覗いている間に線が追加される。

「……。……それ、『お』か?」
「そう」

 出来上がりだけを見て判断するに、それはひらがなの「お」だった。
 書き順がめちゃくちゃだが、やや歪んだ「お」に違いはない。

(――字が書ける、というよりは)
 見たままの字を覚えているのだろう。


「誰かに教わったのか?」
「え?」
 シンは顔を上げると、俺と視線を合わせた。
 きょとんと見返す様は子どものようだ。
 俺は質問の補足を付け足した。
「字の書き方とか、読み方とか」
「……さあ。なんとなく?」

 シンは首を傾げて一瞬考え込むと、何でもないことのようにさらりと答える。
「……」
 俺は思わず顔を顰めた。

(独学で識字?)
 そんなことが可能なんだろうか。
 いや、可能だとしてもそれはヒトの社会の中で育まれた人間にであって、犬には不可能なのでは?

(――いやそもそもヒトになることが本来、不可能だから)
 俺は真剣に悩み始めたが、根底から考えても無駄なことに気づき、首を振った。
 自己完結させた思考に苦い笑みを浮かべると、いつのまにか一文を書き終えていたシンと目が合う。

「オレ、出かけてくる」
 シンは書き終えたコピー用紙を手に立ち上がった。
 マジックが見事に裏写りしている用紙には、「金」という漢字が大きく書かれている。

 漢字まで書けるのか、と感心したのは一瞬だった。

「待て待て待て!」
「ん?」
 俺はすかさずコピー用紙を指差した。
「それはなんだそれは!?」

 綺麗とは言いにくい手書きの字がさらに裏文字となっている。そのため、何かの暗号のようで認識するのが遅れたが、そこには確かに「お金ちょーだい」と書かれていた。

「これ? 看板。ぶらさげてくる」
 シンは何でもないように答えると、玄関へと身体の向きを変えた。

 俺は慌ててその肩を掴むといっそ縋りつく勢いでシンに迫り寄った。
「なんだ何が不満なんだ!? 新手の遊びか嫌がらせか!?」

 わけがわからず焦る俺だが、シンがただ金をせびるなんてことは到底思い浮かばない。
 衣食住で困らせた覚えもなければ、最近じゃ可愛いおねだりの仕方なんてものまで覚えて駄目だと言い通せたことも少ない。
 ドッグフードにも飽きた今では、ヒト型でいることを条件に朝昼晩と同じ食事を与えている。
 少なくとも食ではない。衣に至っては不要だろう。
 どういった原理なのかは皆目見当も付かないが、ヒト型になればいつも違った服をちゃんと着ているのだから。

「な、なに言ってんの?」
 ガクガクと揺さぶる俺の気迫に、シンはたじろぎながら怪訝な顔を向けてきた。
「そうか、どうしても欲しいものがあるんだな?」
 遊びや嫌がらせでないのなら、純粋に欲しいものができたのか。
 俺は納得したように頷いてシンの身体を押しとどめた。

 最近のシンはテレビゲームに夢中だ。
 たまたまゲームのCMを見て、わけのわからないままシンが欲しがったのがきっかけだった。
 自由に散歩へ行かせられない代わりにと買ってやったのだが、思いのほか気に入ったらしくいつのまにか操作を覚えてしっかり遊んでいる。ヒト型を保つ時間も格段に伸びていた。
 今では俺が何も言わなくても大いにひきこもってくれている。

(たしか、えっくすぼっくすとかいうやつだったか?)
 ぴーえすぴーやらうぃーやら、よくわからないゲーム機とそのソフトが増えている部屋。だが、シンの好きなゲームシリーズ最新作がまだ持っていないゲーム機で出ることになったとかで、シンが大いにご立腹していたのを思い出す。
 そのシリーズ以外興味がないからまだ我慢すると言っていたのだが、やっぱり欲しくなったのかもしれない。

(贅沢はダメだとちゃんと教育もしているからな……!)
 俺は何度も頷いて事の顛末を納得してみた。
 ちなみに、最新作がどうのとかいうゲームの情報はシンがネットで収集してきている。ネットの使い方を教えた俺の賜物だった。
(つまりいまさら字が書けたところで、驚くことなんてなにもないじゃないか)
 さらに俺はうんうん、と強引に頷いてシンの賢さに感心してみた。

 全力で物乞いの事態から思考を逸らそうと試みる。

「アスラン?」
 気がつけば動揺し過ぎてぐるぐると思考を巡らせていた俺に、シンが奇妙なものを見る視線を送っていた。

「わ、わかった。買ってやる。な? だからそんな真似しなくていいんだ」
 どこか震える俺の声。
 もう何も言うなと首を振ってシンを静止させると、俺はコピー用紙に手を伸ばした。

 だが、シンは素早くその紙を背後に回すと軽く唸って犬歯を覗かせた。
「なに言ってんだ。アンタに買ってもらったら意味ない」
 俺から一歩退いたシンは、あからさまに警戒しはじめていた。

(まずい……!)
 いち早く捕まえるべく腕を伸ばした俺だが、その瞬間にシンの身体もまた玄関へと駆けていく。
「ちょ、どこへ行くんだ……!? 一人で散歩はダメだと言っただろう!」
「散歩じゃないから大丈夫!」
 納得し得ない返答をしながら、シンが玄関の扉を開いた。扉をすり抜けたシンの身体は、犬の姿に戻っている。

「こら、シン……ッ!!」
 俺が扉を抜けたとき、シンの姿はどこにもなかった。










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