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□バレンタイン・ブラッディ・キス
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 室内に立ち込める甘い匂い。慣れはしたが、いつまで経っても鼻に残る匂いに思わず顔をしかめてしまう。サンドラさんは平気だろうか、あたしほどは鼻が利かないから大丈夫か。もしかしたらあたしにとっては気になるというだけで、サンドラさんには感じ取れる程のものでもないのかもしれない。
「サンドラさん、早く来ないかなあ……」
 2月の14日。今は午前10時になる前。あたしは自宅でいつものようにサンドラさんを待っていた。昨日は雪が降ったから、この、山の中にあるあたしの家はさぞ来るのが大変だろうと思う。けれど彼女はいつも何でもないという顔で来てくれる。実際、山中でも雪中でも物ともしないようだ。サンドラさんは普通の人間の何倍も体が丈夫なのだ……とはいえ、申し訳ない気持ちは無くならない。
 彼女がいつもあたしの家に来てくれるのには理由がある。まず、あたしがあまりにコミュ障で不用意にヒトに会いたくなくて、家から出たくないから。彼女の家にあたしの方から遊びに行ったっていいのにそうしないのは、ひとえにサンドラさん以外のヒトに会いたくないから、だ。だから彼女の方からわざわざ山の中を歩いて来てくれる。そして何故サンドラさんがそこまでして会いに来てくれるのかと言えば……サンドラさんは、あたしの恋人だからだ。
 そう、今日は2月の14日。人間の風習で、恋人同士がチョコを贈り合う日、である。

 今日はバレンタインデーという日らしい。由来はサンドラさんたちの信仰する宗教の何か偉い人の行いによるらしいけれど、現代ではその辺は軽んじられているそうだ。まあとにかく恋人が恋人にチョコレートを贈る日という解釈でいいらしいので、恋人同士であるあたしとサンドラさんもその行事に乗っかるだけである。
 冷蔵庫の方を見遣る。その中には今朝完成してラッピングした、サンドラさんへの贈り物がある。普段お菓子作りなんてしないあたしは、簡単なチョコレート菓子を作るだけでも、とても手間取った。昨日の夜から作り始めたのに何度も失敗して、ようやくサンドラさんに渡せる物が出来上がったのが朝方だったのだ。間に合っただけよかったが。
 そういうわけで、いまだにこの部屋には、甘ったるい匂いが漂っている。でもそう感じるのはあたしの鼻が利きすぎるからかもしれない……あたしがオオカミだから。
 オオカミ。人間には人狼と呼ばれる種族。人化の術を持つ、魔力をその身に宿した狼。あたしはその一人だ。嗅覚も聴覚も人間より、更には普通の狼より鋭い。

 雪を踏み締める人間の足音が家に近づいてくる。それと同時に何よりも愛しい匂いが鼻をくすぐった。あたしは待ってましたと椅子から立ち上がって、玄関のドアを開ける。
「サンドラさん!」
「ああ、雛菊」
 その瞬間、彼女のかぐわしい匂いがした。と同時にあたしは血の気が引くのを感じた。いつもより匂いが強い、ドアを開ける前にそう思ったのは確かだったが、サンドラさんの顔をこの目で捉えた瞬間あたしは確信した。
「え、さ、サンドラさん?!」
「な、なによ」
「どこか怪我でもしてるんですか?!」
「え?」
 サンドラさんの肌はいつも白く透き通っていて柔らかい。でも今その頬は、寒かっただろうに赤く染まっているわけでもなく、明らかに青ざめている。表情からも見て取れる。何かを耐えるように眉根を寄せている。血が足りないんだ。あたしは思わず彼女の肩を掴んだ。
「サンドラさん、血の臭いがします……あたしの鼻は誤魔化せないですよ!」
「あ、ああ、そうよね……でも怪我じゃなくて」
「じゃあなんですかあ!」
 なかなか白状してくれないサンドラさんに、あたしは焦るばかりだった。強い血の臭いがするのに、怪我をしていないなんてそんなことはないだろう。山のなかで何かあったのか、それとも山に入る前に仕事があったのか。ああ、かぐわしい血の匂い……いや違う、そんなこと言ってる場合じゃない。初めて、そしていきなり味わわされたサンドラさんの強烈な血の匂いに、あたしは脳みそまで痺れてしまうような感覚がした。あまりにおいしそうな匂い。いや、だからそうじゃない、怪我の具合を確認しないと。人間は怪我なんかしたからすぐ死ぬんだから。
 今すぐ抱きしめたいのをなんとか我慢しながら、あたしはサンドラさんの身体中に目線を走らせる。……あれ、怪我していそうな場所が見当たらない。どこかを庇いながら立っているようにも見えない。
 あたしはもう一度、サンドラさんの顔をまじまじと見た。やっぱり何か辛そうなのを耐えているようにしか見えない。そんな彼女も、その青い瞳であたしの目を見つめ返した。ちょっと困ったように。
「……とりあえず、中入っていいかしら」
「あっ、は、はいっ」
 言われて気づいたが、あたしは玄関の外で、外套も脱がないままのサンドラさんに詰め寄っていたのだ。
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