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□受けが髪コキしてくれる話
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「桂蘭って髪フェチなの?」
「は」

 睡蓮さんの唐突な物言いに僕は絶句した。本当に急な言葉だったからただただ驚いてしまって、彼の髪をとかしていた手も止まってしまう。

「……何でそんなことを?」
「だってさー」

 睡蓮さん、僕らの主人、飼い主、唯一の愛しい人。
 腰まで伸ばした艶やかな黒髪がよく似合う、女性と見まがうほど美しい相貌の男性。
 彼の朝の身支度を手伝うことは僕の日課だ。誰もが嘆息するほど美しいのに自分の容姿に全く無頓着な彼が、今日もまた寝癖を着けたまま外に出ようとしたのを、僕はすんでのところで引き留め鏡面台の前に座らせた。
 睡蓮さんは自分の美しさに全く気づいていない、なんてことはない。彼は自分の顔の造形が美しいと評価されておかしくないことも、襟や袖口から覗く白い肌のなまめかしさも、腰まで伸ばした長い黒髪がまた妖艶に彼の美しさを引き立てていることも、十分に自覚している。自覚していて興味がないのだ。彼が自分の外見に気を配るのは、仕事で必要なときだけである。
 だからって着物もろくに選ばず鏡も見ずに外に出るのはやめてほしいのだが。素材が最上級なのに手入れをしないとは、勿体ないと思わないのが不思議でならない。

「おまえ器用だからさ、いつも身支度手伝ってもらってるけど」
「はい」
「髪については特に気合い入ってる気がしてな?」
「そんなことはないですよ」
「そーか、違うのかあ」

 僕に身を任せたまま睡蓮さんはつまらなそうに言う。そんな反応をされても違うものは違う。
 いや、もちろん僕はこの綺麗な黒髪が好きだ。でも別にフェティシズムなんてものではない。と思う。
 髪をとかしている途中で手を止める。触り心地のよい柔らかな髪が、僕の手のなかでさらさらと流れる。
 この烏の濡れ羽色の髪は、睡蓮さんのものであるから僕の目にも美しく感じられるし、大事にしなければと思わされるし、丁寧に手入れをしたくなる……のだと思う。僕は他の人間の髪にここまで心を惹かれたことなんてなかったはずだ。それに睡蓮さんの髪が好きなのは僕だけではないだろう。
 だから違う。フェチだなんてそんな変態的な愛情を抱いているわけではない。そうだろう。
 心のなかで自分にそう確認しながら手を進めた。後ろ髪を背中側で一つに括ったら、前髪やサイドを整えて終わりだ。

「はい、できましたよ」
「ありがと」

 左右に首を動かしながら鏡を眺め、睡蓮さんは満足げに頷いた。それからこちらに振り向く。
 美しい黒い瞳が僕を見る。睫毛の濃いつり目に射抜くように見つめられると、僕はいつもどきりとして呼吸を忘れてしまいそうになる。視線が絡め取られて、自分の意思では目が離せなくなる。
 けれど彼のその形のよい唇が言うことは、大抵の場合気の抜けてしまうようなことだ。はじめからわかっていた。

「でも俺の髪は好きだよな?」
「……もちろん、好きですよ」

 僕は呼吸を取り戻しながらいらえた。
 何を確認されたんだろうか。そんなに確認したいことだったろうか。彼の頭の中はわからない。まあ、わからなくてもいい。睡蓮さんの頭のなかはきっと僕には理解できない構造をしているのだ。それが魅力かもしれないし違うかもしれないが、結局そんな部分も含めて愛しているとしか言いようがないのだから仕方ない。深くは考えまい。
 なんて会話をしたのが今朝のことだった。
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