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□少女金魚
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――春先だというのに、寒い日が続いていたその日。
久しぶりに覗いた春らしい陽気に、歓喜するように空は青く晴れ渡っていた。
その時俺は、何の因果か担任の服部に雑用を手伝わされていた。
部活に行こうと教室を出た瞬間、音も立てずに背後から伸ばされた手に思わず声が漏れる。
「いやー悪いね土方!」
前髪で隠れた表情だが、ちっとも悪いと思っていないのだけは分かる。
俺は一緒にいた総悟と近藤さんを先に行かせて、渋々その後に従ったのだった。(断じて総悟のニヤニヤ笑いがウザかったわけではない)
頼まれたのは重たい段ボールの運搬作業。
積み上げられた数個の茶色い箱をポンポンと叩きながら、悪びれた風もなく「じゃあコレ社会化研究室まで頼むよ」とのたまった服部(の臀部)に、俺は懇親の蹴りをお見舞いしてやった。
間髪いれずに床に転がり、悶え始める無様な担任。
それをどこぞのドSさながらの瞳で見下ろしながら、俺は一つ目の段ボールに手をかける。
「…ったくよォ」
部活前に何でこんないらん体力を使うようなことをしなきゃならねェんだ。
職員室から社会科研究室まではそれなりに距離がある。
三階の最奥に設置されたその埃臭い部屋を思い、俺は重々しい溜め息を吐いた。
兎に角こんな面倒な作業は早く終わらせるのが得策だ。
せかせかと足を前後に動かし、俺はひたすら階段を駆け上がる。
と、その道すがら自分の教室の前を通りかかった。
さっきまで眠気しか引き起こされない退屈な授業を聞いていたその四角い箱。夕方に差し掛かり、光が消えたその教室は普段と何ら代わり映えしない。
…しないはずなのに、何故だかその空間は俺の脚を止めた。
後ろ側のドアからばんやりと教室を眺める。
掃除なんてサボるのが常というモットーのせいで床にはくずゴミが散らかっており、誰が描いたんだか黒板では謎の生命体がこちらに向けて手を振っていて。(しかも「JOY!」と書かれたふきだし付きで)
騒がしいクラスメイト達がいなくなった教室は、何か明かりが消えたような淋しさを残していた。
「クラスメイト、か」
普段あまりそんな風に認識はしないものの、思えば俺はこの常識外れたメンバーたちと3年目の春を迎えようとしていた。
次々にそいつらの顔が脳裏を駆け…って何だコレ走馬灯か?
何でだよ俺ァ全国制覇を果たすまで死ぬつもりァねーぞ。
雑念を払うように頭を振る。
そうだ、今は雑用だ。
しかし教室の隅に追いやられるようにして佇む一つの机がやたらと目に留まり、俺は何故かそれに引き寄せられるようにフラフラと足を向けていた。
「…ここは確か」
浮かんだのは、一人の女生徒の面差し。
これだけ濃いメンバーが集まったというのに、どうしてかそいつはやけに浮いていた。
普段はボケっとしているか授業をサボるかであまり教室にはおらず、そのせいもあってクラス内の存在感はないに等しい。
しかし俺にとっては――否、恐らくクラスのどいつからしてみても、ソイツを忘れるということはなかったように思う。
いい意味でも悪い意味でも、そいつの存在はここにあるからだ。
高杉のような悪名高さを持つわけでも、山崎のような地味さを発揮しているわけでもない。
なのに、何でか。
何でか時々ふと思い出しては、脳裏を占めるクラスメイト。
この感情を何と呼ぶかは知らないが、その時俺は無性にそいつのことが気にかかった。
今日も彼女は授業をサボった。
朝あったはずの鞄もないし…つーかいつ帰ったんだよ怖ェなオイ。
彼女の縄張りは、立ち入り禁止のはずの屋上。
それから、忘れ去られた中庭の古池。
いつも渡り廊下を通りかかると見かける背中。
池の端に膝を抱えパンくずらしき餌を撒くそいつを見て、何だか忍び笑いが漏れた。
あの池には、やたらとデカい金魚がいるらしい。
しかし誰からも忘れ去られたそれは、今や彼女のペットと化しているはずだ。
クラスメイトとではなく、お池の金魚と仲良くする女子高生、ねぇ。
妙にシュールな組み合わせだ。
そうして彼女を思ったあとに見渡した教室は、先ほど目にした世界とは違うように見えた。
ああそうか。
彼女にとってこの箱は、きっと小さな金魚鉢にしか過ぎないのだ。
外から餌をやるはずの自分が、こんなちっぽけな水槽に閉じ込められるなんて。
「そりゃァ窮屈だよなァ?」
クツリと喉で笑いを漏らす。
そっと撫で触ったそいつの机は、まるで新品の状態で。
その大半が日々の乱闘によって破壊されるうちのクラスにとっちゃ、何とも珍しい感触だった。
――明日は、来んのかな。
心中に思った他愛もないようなその疑問に、答える者は何もない。
気まぐれな彼女のことだ。
きっとそれは誰にも分からないのだろうな。