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□少女金魚
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しかしそれは皮肉なことに、例えるなら神に祈るヒトの子の姿に酷似していた。










神様なんて信じていないが、俺たちは一般的にそれに属するものとされている。
今相対しているこの小さな光も、この手を離れたらその神とやらの元へ召されるのだろうか。
そんなのはごく宗教的、一元的な考え方に過ぎない。


目の前で横たわる小さなそれに一瞥をくれる。
ほんの数分前までイキモノであったもの。(人間の間ではネコ、と称される)
無粋な鉄の箱に轢かれたか。白い毛並みを赤黒く汚し、静かに瞳を閉じている、それ。

あの女と出会ってからこんな仕事も久方ぶりだ。
いつもながら、いつまで経っても後味の悪い生業だよ。


そっと死体の傍に膝を折り、厳かに右手を翳す。
すると無数の小さな光たちがそこからすうっと現れ、音もなく俺の手の内に集まった。



「次はもっと賢く生きろよ」



一度軽く拳を作り、光の粒を一つに凝縮させる。
小さな欠片は一つの固まりとなり、ぱっと開かれた掌から頼りなさげにふわふわと旅立っていく。



「…それでは安らかに」



何者にも侵されぬ、永久の眠りを。










気付いたら、また元のあの空間に戻っていた。
とは言ってもさっきまでどこにいたのかも曖昧なのだけれど。

どうしてか酷く眠い。どれだけ眠ってもちっとも足りないのだ。
このままずっと目を閉じていたら、そのうち地面に(というのか)溶けて混ざってなくなってしまうような気さえする。
まあ、それでも今は構わない。

ああ、わたしは空っぽだ。





名前は、何だったっけ。

眠りと眠りの狭間に訪れる瞬間的な覚醒のたび、わたしはわたしに一つ質問をする。
けれどその答えが導き出されることはない。その前にまた眠ってしまうからだ。
目覚めた時に、わたしはもうその答えを持ってはいない。


名前を忘れたことを、酷く恐ろしいと思った。
大して愛着があったわけでも、世間様に胸を張れるわけでもなく、どこにでもありそうな凡庸なものだったけれど。
あれは唯一、何をしなくともわたしを輪郭付けるものだった。何にも属さず居場所を失ったような心にも安心感を与えてくれる。この世でたった一つ、わたしの影を地上へと縫いとめるものであったというのに。

失くして初めて大切だと気付く。よく聞いた話ではあるが全く先人は上手いことを言ったものだ。
大切だったかは分からない。
失くしてしまった。わたしを形づくる何かが一つずつ消えていくことに、小さな子供のように怯えているだけなのかもしれない。





何度目かの覚醒が訪れた。
目を見開くと相変わらず何とも言えない…青といえばそうであるような色が広がる天井が映る。果たしてこれは天井なのか。それにしてはどこか違和感がある。が、しかし空と言い切れるほど開放的ではなく、寧ろ閉じ込めることを目的として塗り込められたもののようにも思えた。

そういえば坂田がいない。
重い体を何とか動かし辺りに視線をやる。
いつもなら必ず目の届く場所にはいたはずだ。それが寄り添うようであることもあれば、隅の方で膝を抱えぼんやりとしていることもある。
恐らく気まぐれなヤツの性というものなのだろうが、その様がどこか野良猫を思わせて、図らずも頭を撫でたい衝動に駆られたほどだ。いや撫でたけども。あの時の坂田の顔は傑作だった。そして喧嘩になった。(どうして)


ずっと寝転がっていたので体が痛い。
上手く血の巡らない状態でよっこらしょとばかりに立ち上がったら、これがまた笑えるくらい盛大によろけてしまった。
貧血の時に少しだけ似ている。膝がカクンと外れて今にも地面にこんにちはしそうな感じ、



「…何やってんだ」

「…あ、」



あれ、痛くない。
てっきりこのままこの地面だか空だかよく分からんものと濃厚なベーゼを交わすことになると思っていたら、中途半端な高さで体が引き止められた。
聞き慣れた(不本意にも)声がしてのたりと首を上げれば、そこにいたのは件のエセ天使。



「おーおかえりィ」

「はいはいただいま…ってか危ねェなお前は。ふらふらのままどこいこうとしてんの」



どこに、という訳でもなかったが。
坂田を探していたというのもどこか癪だったので、適当に「トイレ」とか言っておいた。そしたら「女の子がそんなん男の前で言わない!」と頭を叩かれた。



「…痛い」

「だろうな」

「ねー坂田ぁ」

「あんだよ銀ちゃんって呼べよー」



この不毛な問答は今でも続いている。
しかしこちらの構ってやるところではないとわたしは勝手に判断しているため、その辺は無視するに限る。



「どこ行ってたん」

「んー?ちょっとな。お仕事」



オシゴト。この言葉がこれほど似合わない人間(いや天使?)もそうそういないだろう。
ぼりぼりと頭を掻きながら「つっかれたァ」と欠伸をする様は、くたびれたサラリーマンそのものではあるような気もするが。



「…アンタちゃんと仕事してんの」

「してますよー。勤勉な俺は今日も馬車馬のように働かされて来ましたァ」



ひらひらと手を振りながら座り込むので、腰を支えられていたあたしも不思議な体勢でしゃがむことになった。
セクハラー!とか叫ぶべきシーンなんだろうかここは。



「ふーん、お疲れ様」

「んー」



腰に巻きつく腕を払い、少しだけ場所を移動してきちんと座り込む。
何だかまたふわふわとした眠気が襲って来たので、おあつらえ向きにそこに鎮座していた坂田の背中を背もたれにした。



「ねー」

「今度は何」

「さっきさぁ、怖い夢見た」

「…へェ」



何かね、すっげー怖かったのは覚えてんだ。
目ェ覚めた時、凄い汗とかかいてたもん。指とか冷たかったし。

でもね、どんな夢だったのか、それは全然覚えてないの。
凄く凄く大切なものだった気がする。…あ、夢に出てきたのがね。
それを失くす、のかなあ。わあああって泣くんだよ。誰が?ああ、きっとわたしがさ。



「何だったんだろねぇ」

「…さーな」



とろとろと落ちてくる瞼に抵抗するように口を動かす。
ちゃんと聞いているのか、坂田の返事は曖昧だ。(しかしそれを問いただす根気もない)



「こんな夢ばっか見るんだったら、寝るのやんなっちゃうな。わたし昼寝好きだったのに」

「そーかィ」



背中合わせに坂田が喋ると、その声の振動が伝わって骨だか筋肉だかが小刻みに揺れた。
それがヤツの体温と混ざり合ってわたしに届くものだから、それだけはきっと確かなのだと少しだけ安心する。



「坂田ぁ」

「はいよ」


「…次、目ェ覚めたら」

「………」





わたし、何を忘れてるかなあ





そう言った瞬間、背中の支えがふっと消えた気がした。
その代わりに両瞼の上に温かい掌が落ちてきて、わたしの視界をすっかり奪っていく。



「…何も考えるな。怖くなんざねェよ。銀さん、ここにいてやっから」

「…う、ん」

「怖くねェよ」



まるで子守唄のように、坂田の声が意識にこだまする。
宛がわれた掌はまるで赤ん坊のように熱くて、少しだけ甘い匂いがした。











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