あをにあらし

□夏陰
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お世辞にも快適とは言えない乗り心地でバスは停車した。
東京から3時間。ローカル線を乗り継いで、到着した駅で更にローカルなバスへと乗り換える。その本数の少なさと言ったら交通の便をよくするために敷かれた路線だというのに、乗り逃したらどうしようという恐怖に駆られるほどで。
あと1分でも電車の到着が遅れていたら、俺はあの閑散としたバス停で今もうなだれていたに違いない。何てったって2時間半に一本とかいうペースなのだ。これはもう喧嘩を売られているとしか思えない。


ぷしゅう、照りつける太陽の下、暑くてやっていられないとでもいうような音でバスのドアが開いた。
折角Suicaを持っているというのに、ここじゃ料金は手渡しらしい。じゃらじゃらと出した小銭を大して確認もせず、無愛想な運転手がギア横に置いてある缶に放っていく。
一応表面上だけぺこりとお辞儀をし、俺は重いとも軽いともつかない荷物を引き摺り下ろす。
ステップの最後の段からは地面と微妙な距離があって、全くバリアフリーなんてもんは考えられちゃいねえな、と、十代のみぎりでそう思った。一足飛びで着地した俺の背後で、バタンと大きな音を立てて自動ドアが閉まる。こんな時だけせっかちな野郎だ。これではまるで俺が締め出されたみたいじゃねェか。

舗装などされていない地面剥き出しの道路をガタガタその巨体を揺らしながらバスが駆けていく。
その巻き上がる砂埃だとか遠くに霞むその姿だとかが、いつだったか両親に連れて行かれたサファリパークを彷彿とさせるな、なんて。



「…は、らしくねェ」



嘲笑にも似た笑いを漏らし、俺は改めて自分が降り立った場所を眺めてみる。
剥き出しの茶色い大地。競り合うようにして伸びる雑草。右手にあるのは鬱蒼とした林だか森だかで、数十メートル先に漸くバス停らしきものが確認できる。(あの運転手適当しやがって)
東京では女子どもに羨ましがられた漆黒の髪に降りかかるのは7月の日差し。帽子など持って来なかったのでその暑さを手で防ぐ他はなく、背中に流れる汗を不快に感じながら俺は荷物を背負いなおした。


やっとの思いでバス停まで辿り着き、そこに申し訳程度に設置されているボロボロのベンチに荷物を放り出す。
その後俺もどかりと腰を下ろせば、足場の悪さからかギィィとそいつは鳴き声を挙げた。恐らく昔は青だった塗装は剥げ、辛うじて残る部分も水色や白に日焼けしている。
それほどに利用者がいないのだろう。っていうか、マジでこの辺に人が住んでんのか。

疑念と不安に駆られながら、俺はふうっと溜め息を吐く。首を逸らして深呼吸すれば、むせ返るような草の匂い。
見上げる木々の隙間から見える空はどこまでもクリアで、排気ガスに汚れた東京のそれとは大違いだった。
キラキラと木の葉がまるで宝石のように輝いている。眩しい。

今年も、夏が来たのだ。





『十四郎、ちょっとお話があるの』



いつになく強張った表情のお袋に呼び出されたのは、確かもう一月も前のこと。
いつもニコニコと笑みを湛えていたその目元は兎のように真っ赤に染まり、心なしかげっそりと影が落ちているようにも見える。

その日まで、俺は部活で合宿に出掛けていた。
一週間前まではそこにあった笑顔。何だろう、何とも言いようのない不安が俺の胸を占めた。


リビングに降りれば、普段ならまだ仕事で会社にいるであろう親父が既に席に着いていた。
珍しいこともあるものだと思う反面、俺の中で生まれた不安はどんどん影を濃くしていく。



『ど、どうしたんだよ親父。今日はいやに早いじゃねェか』

『…ああ』



くたびれたような笑みを浮かべ、俺の問い掛けに親父はそれだけを返した。
精悍な顔によく似合う灰色の夏物スーツはぐしゃぐしゃによれ、ネクタイや鞄は無造作にソファに投げ出されている。

何だ、これ。
目には見えない重苦しい何かがこの空間を取り巻いているような気がする。それが何かは俺には判りもしなかったけれど。


それから三人分の麦茶を淹れたコップを携えたお袋がキッチンから戻ってきて、親父の隣に腰を据えた。
そこに浮かぶのは申し訳なさげな、寂しげな表情。
何だよ、やめろよそんな顔。アンタはいつもニコニコしてろよ。



『…は、なしって…』



聞きたくはない。どこかがそう叫んでいるのに、脳が警告を出しているのに。
息苦しさに耐えかねた俺の口は何の抵抗もなくそんな問いを投げ掛けていた。



『…うん。あのね、合宿で疲れてるでしょうし、いきなりこんなこと言ったらびっくりしちゃうかもしれないけど、』



落ち着いて、聞いてね。
そう言ったお袋の瞳には既に涙が浮かんでいた。
お袋が喋る間中、親父は一回も顔を上げなかった。



『前々から、考えていたことではあったの』



頼む、やめろよ
聞きたくない



『…それで、色々考えたんだけどね』

『…っやめろ!!!』



必死に叫んだのに。お願いだからと言ったのに。

お袋は『ごめんなさい』と笑っていた。
親父は一度も俺と目を合わせようとしなかった。


俺の“家庭”は、こうしてあっけなく、音も立てずに崩壊してしまった。
その一月後、俺は遠縁の親戚のうちへと預けられることが決まったのだ。





――ふ、と。
掬い上げられるような、浮上するような感覚で意識が戻ってきた。
どうやらこんな所で寝てしまったらしい。妙な体勢で凝った関節が動かすたびにバキバキと嫌な音を立てる。シャツはすっかり汗に塗れ、白かったその色を少しだけ濃くしていた。




「(…今何時だ)」



ぼんやりとする頭で周囲を見回す。
当然のように時計などそこにはなく、ただ広がるだけの緑、翠、碧。
これだけの自然がまだ地球上にあったのかなんて、そんな馬鹿げたことを思った。そのくらいその緑は美しかった。

空は先ほどよりもその色味を増していて、恐らく午後三時くらいに入ったのではないかと思わせる。(そこら辺の詳しい感覚は知らない)
しかし未だ立ち上がる気にもなれない俺は、しばらくそこでぼーっとしていた。というかここには迎えが来るはずなんだ。事前に連絡しておいたってのに、一体何をやって、



「…ひじかた、さん?」



どこか遠くの方から、誰かの声が聞こえた。
実際はそんなに距離はなかっただろうけど、思考に沈んでいた俺の意識にはまるで水中で聞く音楽のように感じたのだ。
凛とした、透き通るようなアルト。視界の端にさらりと揺れた美しい黒。



「…あ?ああ…はい」



どこかマヌケな返事を返したら、その影はぱっと表情を明るくした(気がする)。
良かった!と息を吐くようなポーズを取ってから、改めて俺の目の前に立ってみせる。



「初めまして、待たせちゃってごめんなさい」

「…はあ」

「暑かったでしょう?」



当然のような質問をしながら、その人物は俺ににこりと笑顔を投げ掛けた。
適当な愛想笑いを返す俺。…多分、俺と同い年くらいか。

学校の帰りなのだろうか、纏うのは私服ではなく夏物のセーラー服。
白と紺のコントラストが美しい。

迎えに来たという少女はくるりと踵を返し、日光の元へ帰っていく。



「…!」



そして振り向いて、数秒。
一瞬見間違いかとも思ったが、まじまじと見つめれば見つめるほどそれがニセモノないことが分かる。



「?どうかした?」

「…あ、いや、何も」



じっと見つめていたのが照れくさくて、俺は久しぶりに赤面した。
ばれないよう左手で顔を覆うが、果たして間に合っただろうか。





あの日、緑の光に溺れそうになっていた俺の目の前に現れたのは、
夜闇のような漆黒の髪と深海のようなブルーの瞳を持った、天使のような女の子だった。





(080719)


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