jam

□喜劇
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何の前触れもなく発された言葉に私はきょとんと首を傾げる。因みに未だ床に臥せったままではちょっと視線が合わせづらかったので、恐る恐る相手の顔色を窺いながら正座レベルまで体勢を立て直すことにした。

相変わらずの端正な顔立ち。そこに浮かべられるにこにことした笑みは一見穏やかだが、その顔のまま暴力沙汰に及ぶことを身をもって学んでいる私としては恐怖の対象以外の何者でもない。いっそのこと怒ったり不快だったりという感情が表に出てくれた方が、次の行動が分かりやすくていいような気さえする。

そんな顔に今日も今日とて凝視されつつ私は先程の言葉の意味を咀嚼する。えーと、間抜けな発音…私今何て言ったっけ?
はて何のことやらと疑問符を浮かべたことに気づいたのか、一つクスリと笑いを漏らして“かむい”は上体をむくりと起こし上げた。そのまま少し体を移動させ、ベッドの縁に足を投げ出すようにして胡坐をかく。



「アンタってほんとあったま悪いんだね。話の流れで分かりなよ」

「…いや結構無理言ってますよね?」



先程までの一発芸大会という名の拷問から、一体何で発音の話に。
ちょっと…否、かなりイラッと来る台詞にはいちいち構っていたら身がもたない。ここは大人の柔軟な精神でスルーすることとし(いや私の方が年下臭いけど)、それじゃあ何だと先を促すこととする。



「あ、もしかして地球語が聞き取りにくいとか」

「それこそ馬鹿?俺たちとアンタらの間にそこまで大きな言語の壁はないよ。現に今ちゃんと会話成立してるでしょ」



あんまり下手なことを言うとぶん殴られそうだ。既にスタンバイ状態の彼の右手が怖い。
では何ぞやと視線で問う。馬鹿だ阿呆だと言われるのは既に慣れ切ってしまったことなので、敢えて怒ったりはしないのである。…あとで枕に八つ当たりとかはするかもしれないが。



「名前」

「は?名前?」



が、しかしそこで返されたのは予想していたのとは地球3個分くらい掛け離れた単語だった。名前、と端的に言われてもまだ理解が追いつかないのですが。



「アンタ、どーにも俺の名前呼ぶ時の発音が間抜け臭いんだよね」

「…いや、それは何と言いますか…」



それはイメージの問題だと思います、とは心中でこっそり呟いた言葉である。母国語が日本語であるためか、漢字で表記される名前と平仮名のままの名前では発音する時の心持が違うような気がするのだ。
現に私はこの人の名前を漢字変換することが出来ない。“かむい”とそれだけは知っているのだが。

遠回しにそんなことを告げると、「ふうん」と小さく言って顎に手を当てる。因みに何故か組まれていたはずの右足によって、私の首筋に綺麗な回し蹴りが決まったことは原因が不明である。

発音というのはそんなに大事なものか。私としては本名がどう呼ばれようが気にならないのだけど…ああでも、よく行く宅配地域に一人いたな。やたらと不名誉なあだ名で呼ばれるのを嫌って訂正を入れてくる鬱陶しい長髪が。
既に遠いことのような記憶にハハハと乾いた笑みを漏らせば、何がご不満なのかもう一発今度は下から打ち上げるような蹴りが決まる。入ったのは顎だ。こんなにガスガスやられてたら、そのうち外国人のように顎が割れてしまいそうで怖い…将来のあだ名が「マイケル」とかじゃないことを切に祈るばかりだ。

そうこうするうちにどこから取り出したのか、“かむい”は筆を手に取った。持ち手から毛先に至るまで黒いそれは、決して趣味がいいとは思えない。



「紙がないなー…めんどくさいからここでいっか」

「え?」



そうして何やら頭を掴まれ、物凄い力で横を向かされる。蹴りを食らったばかりの首はゴキリと鈍い音を立てたが、喚いたところで次は胴体と首が真っ二つというような未来しか待っていない気がしたので、長年鍛え上げた根性で何とか堪えた。

――ぴと、
と、突如左頬を襲う冷たい感触。何じゃこりゃああと一昔前の有名俳優のように叫んでしまいたかったが、それも気合で飲み下す。



「…できた。これが俺の名前だから」



そうしてじっと身を固めること数十秒。満足げに顔を上げた“かむい”の発言を聞く限り、どうやら私の頬にでかでかと署名して下さったらしい。
というか「名前だから」と言われたところで私にはよく見えないんだけど。墨が落ちないようにそっと左頬に掌をくっつければべたりと不快な感触。恐る恐る手を離すと、そこには綺麗に反転した文字が写し出されていて。



「…神、威?」

「うんそう。格好いいでしょ?」



それを見て小さく呟いた私ににこりと微笑みかける。そのうち「微笑み王子」とか何とかで新聞に載りそうだなあとか、少しばかり考えてしまった私の脳みそはどうやら本当に間抜けであるらしい。

じっと凝視すれば決して達筆とは言えない文字が掌(と恐らく左頬)で踊っているのが見え。それに甚くご満悦らしいこのご主人様は、得意気な溜息を吐いたかと思いきや少し顔を俯けて言った。



「神威……“神様の威を狩る兎”だよ」

「………え…?」



呟かれた言葉は小さく、吐き出された瞬間部屋の空気に溶けて消えた。しかしその瞬間浮かべられた酷薄な笑みとその小さな呟きは、私が聞いた彼の言葉の中で最も聴覚を伝って脳に響き、忌まわしい烙印かのように重々しくそこに焼きつけられたのである。






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