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□喜劇
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これまで私が彼を名前で呼んだ回数は、とても少ないと思う。それには何となく呼んでやるのが悔しい…っていうかムカつくからという理由もあり、また気まぐれなその人が「気安く呼ばないでよ」と拳を振りかざしてきたことがあるという理由があり。(理不尽にも程がある)
まあお互い呼びかける数文字の名詞なんかに頓着するような関係でもなかったし、少なくともあっちが私を「ミケ」とかいう不名誉なあだ名で呼び続ける限りは決してまともに呼んでやらんと心に誓っているというのも理由の一つで。

そんな私がいきなり何故名前の話を持ち出したかといえばこれまた理由は一つ。気分屋を地で行く自称飼い主様が、ある日突然こんなことを言ってきたからであって。



「…ねえ、いい加減その間抜けな発音の仕方どうにかなんないの?」

「…は?」





事の始まりは確か、彼の「ペット」となってから一週間とちょっとが経ったある日の夕食後の話。

誂えられた大きなベッドにごろごろと転がる様子からは、「食後すぐに横になると太る」という全世界の乙女の共通概念たる格言は知らないことが窺える。まあそもそも彼は誰がどう見ても男に他ならなかったし、しかし毎回物凄い…それこそ満漢全席もかくやというほどの量をぺろりと平らげている辺り、自称乙女の端くれとしてはその細身の肢体にギリギリとハンカチを噛み締めたくなるジレンマで一杯だったわけで。

食後の休憩とばかりにお腹を摩るその仕草さえ疎ましい。私がそんな悲嘆に暮れているというのに、しかしこのご主人様はそんなこと頓着してくれない。
彼の食事と比べたら本当に残飯かと思うような夕飯を終えた私に、当然の如く休憩時間など与えられるはずがない。食べ終わるなり「何か芸でもしてみせろ」と命令され固まる間もなく強制的な一発芸大会(というか一人舞台)に突入。しかし平凡な人生を歩んできた私が目の前のビックリ圧縮胃袋星人を面白がらせるような芸を持っているはずもなく、仕方なしにそこらにあった皿でも回してみようとチャレンジしたが敢え無く失敗。



「あーあ」



無残に砕け散った数枚の皿の残骸を見て、“かむい”は大きく落胆の声を上げた。それが私には有名な「お皿がいちまーい」という怪談のあのカウントダウンにも聞こえ、すいませんと条件反射で謝るべく顔を上げた矢先にフリスビーの如くぶっ飛んできた大皿(因みに豚の丸焼き的な物体が乗っていたもの)が顔面にクリーンヒット。意外にも固かったその盤面が大して高くもない鼻を無遠慮に潰してくれた所で力尽き、べたりと地面に突っ伏したのである。

…と、これがほんの10分前までの顛末。


取り敢えず鼻血を噴かなかったのは不幸中の幸いだとそっと赤くなっているであろうそこに手を添える。ジンジンと痛む鼻はすっかり感覚を失くしていて、私は溢れそうになる生理的な涙を文字通り歯を食いしばって何とか堪えた。

そんな私の悲哀に“かむい”が気づくはずもない。横になったまま瀕死の私を一瞥すると、そう言えばとさも今までのことがなかったかのような風情で話題転換をし。



「…ねえ、いい加減その間抜けな発音の仕方どうにかなんないの?」

「…は?」



――話は冒頭に戻るのである。






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