jam

□喜劇
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――水中の砂を掬い上げる。私の意識はそうして幾度か浮き沈みを繰り返していた。冒頭の表現は、ふっと覚醒する時の感覚を比喩的に表現したものである。



「…う」



ゆらゆらと浮かんでいた意識が地上に舞い戻り、次にぼんやりとしていた頭が動き始める。ここまではいいのだけれど、ついでとばかりに全身の痛みも知覚してしまうのは考え物だ。
首筋の出血はもう止まったのだろうか。どう考えても血を流し過ぎた。ぐらぐらするのは意識を失っていたからという理由だけではないだろう。というか、寧ろ貧血によって倒れているのかもしれない。

痛む体に鞭打って、暗闇の中何とか起き上がる。視界がぐらつこうがこの中ならばさほどの障りもない。



「…今何時だろ」



光の差さない室内では時間の感覚などとうに失せている。今が朝なのか夜なのかさえも分からない。まあ最後に見た景色は豪雨の模様を呈していたから、結局どちらなのかはやっぱり分からなかっただろうけれど。
首を回すと張り詰めていた皮膚がズキズキと痛んだ。こんな時にも私の体は必死に再生しようと頑張っているらしい。私自身は一時でも死を望んだのに、それも何やらおかしな話である。



「………」



出来る限り視線を動かすがやはりそこに確認できるものはない。闇はどこまでも延々と続いているようにも見え、こんな所にずっと置かれたら気が狂ってしまうのではと思うほど。



『俺たちは日陰を歩くもの、アンタらは日向で生きるものだ』



そうしているうちにいつかの阿伏兎さんの言葉がふっと脳裏を過ぎった。日陰というには暗すぎるかもしれないけど、彼らはこんな世界ばかりを見ているのだろうか。
“正気”じゃいられない常闇に生きているから、だから理解しあえないと言うのだろうか。

無意識に吐いた溜息がやたらと空間に響いた。それだけでも私はまだ室内にいることが確認できる。もしも宇宙空間に放り出されでもしていたら、今頃本当に死んでいたかもしれないから。
考えて、くすりと笑いが込み上げる。



「…何だ、やっぱり私生きたいんじゃん」



初めて目にした常夜の闇は、思いの外私の心を蝕んだらしい。日の光しか知らないちっぽけな私はそれに飲み込まれるのかと恐怖したのだろう。
ならば殺してくれだなんて、本当に人間とはどれだけ弱い生き物なのか。



「…逃げてばかりじゃ理解なんて出来ない」



口にすると少しだけ力が漲るような気がした。言霊とはよく言ったものである。先人はやはり偉大だ。

きっと私は少しでも仲間に入れて欲しかったんじゃないかと思う。傍にいるだけなんて、それで耐えられるほど簡単には出来ていないつもりだ。
優しくされるのにも殴られるのにも、傍に置いてくれるのにも理由が欲しい。底まで覗き込む勇気なんて持ってないけど、一緒にご飯くらいなら食べられるんだから。



「…帰らなきゃ」



唐突に、しかし確かに私の心が言った。帰るというのもいまいちおかしな表現ではあるけれど、それでも私は帰らなければ。
星が流れるほどの短い時を、それでも一緒に生きたのだから。気持ちが動かないなんてそんなのは嘘っぱちだ。

たとえばアイツの傍にある世界が全て地獄というのなら、私はそこに手を突っ込んで少しでも上を向かせてみせよう。たとえば感情の全てを殺すというのなら、傍にいて少しでもその機微を読みとって見せよう。
そして何より、あの澄ました顔を一発ぶん殴ってやらなければ気が済まない。



「…ちっくしょう、乙女の柔肌傷物にしてくれやがって」



まあ、これはありがちな責任転嫁というやつですが。

震える両足で踏ん張って、歪む視界で立ち上がって見せよう。常に光差す場所を歩いてきた、私の世界は暗闇にも飲まれない。
一番底に眠る青は、きっとそんなに薄汚れてはいないと思うのだ。










星の片付け方を知らない






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