jam

□喜劇
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――悪夢は音もなく忍び寄る。










バタバタバタバタ…!けたたましい無数の足音が廊下を駆け抜けていく。
緊急警報が打ち出されたのが今より丁度15分ほど前の話。夜半を迎え、それぞれが就寝の時間に就こうかという時間帯にそれは起こった。



「…あー、これはこれは」



警備兵が戸口を守る一室に踏み込んで、阿伏兎は吐き出すように言った。がしがしと後頭部を掻けば少し癖のある髪が跳ねる。



「やられた、ってか」



眼前には数時間前と変わらず血に塗れた室内があって、しかしそこにあるべきはずのものがなかった。
『団長に殺害されたはずのトロイという男の遺体が遁走した模様です』先程下っ端の団員が伝えた内容が脳裏を過ぎる。…そう、そこにはこの血飛沫の根源たるトロイなる人物の遺体がなかったのだ。

遺体のあった場所にしゃがみ込めば、確かにそこに男がいたのであろう証拠として大量の血液が飛散しているのが見える。そっと手を添えれば既に凝固を始めているのだろうそれ。生温かいぬめりには本能とも呼べる何かが中枢神経を伝い脳に悪寒のような興奮を伝えるのを感じた。

握り締めた赤はそのままに、すくりと膝を支え立ち上がる。周囲を見回せば恐らく床を這いずったのだろう、何かを引きずったようにして赤い線が室外へと続いている。
恐らく唯一の足がかりがその血痕なのだろうが、どういうわけかそれも暫く行った所で途切れている。現在船内を総動員で調査及び討伐に向かわせているが果たしてどうなることか。



「…さて、奴さんはどうしてんのかねェ」



どこか暢気な口調は廊下から響き渡る怒号やら足音やらで掻き消えた。小さく溜息を吐き再び髪に手を突っ込む。大して指通りのよくないそれは、しかし彼の右手に酷く馴染んでいて。
かしかしとかき上げたそれが癖になったのはいつだったかと、苦笑を漏らして阿伏兎は服裾を翻した。





***



「っだァりゃァァァァ!!!」



――ガシャーン!!
激しい音を立てて壁と思しきそれが撓む。反動でよろけた私の体は重力だか引力だかに打ち勝てずにぽーんと後方へ飛ばされた。



「っ!ってー…」



強かに打ちつけた後頭部、それから壁に体当たりをかました際にぶつけた右半身がズキズキと痛む。後頭部を摩るようにして起き上がったら、何度目だろうか首筋の怪我がじくりと泣き声を上げた。



「あー…傷口開いたかな」



ぼんやりと呟いてその場にへたり込む。見上げたそこにあるものはただひたすらの闇で、しかし私は何とかこの部屋を脱しようと必死に捨て身タックルを繰り返しているという状況で。


――帰らなきゃ。誰に言われたでもなくふっと自らのうちに沸いたその言葉は、かつてないほどに私を素直に突き動かした。
よろける足で立ち上がれば暗闇の中でもぐにゃりと歪む視界。ド畜生と持ち前の根性だけで何とか踏ん張って体勢を持ち直し、私はそろそろと壁に向かって手を伸ばした。

ざらざらとした感触の壁面が続き、しかしある面で質感の違うものに触れる。ひんやりとした温度を放つ鉄製と思しきそれは、恐らくこの部屋に唯一取り付けられている扉なのだろう。
投げ入れられた瞬間は失血のためぼんやりとしていたから、この扉がどのような素材で出来、またどれくらいの厚みや強度を持っているのかは分からない。しかしここで座っていたってどうにもならない。

私はごくりと喉を鳴らし、眼前にあるはずの扉を睨みつけた。
触った感じからして内側に鍵はない。窓もなかったし、恐らく物置部屋かもしくは牢獄と言われるような部屋なのかもしれない。



「でも成せば成る!」



唯一耳に響くのは自分の声だけ。態と大声で言って自分の中の闘志を奮い立たせる。
ぎゅっと硬く拳を握り足を強く踏ん張る。体勢を低くしたまま怪我の処置具合を確かめようと首に手をやれば、いつだったかつけられたままの首輪がジャラリと重苦しい音を立てた。



「…これも外してもらわないとね」



どうやらあの傍若無人なご主人様は「ペットは最後まで面倒を見ましょう」という言葉をご存知ないらしい。まあどう頑張って見てもモラルなんて言葉自体知らなさそうだから、それも仕方ないことなのかもしれないけど。

ジャラジャラと音を立てる赤いそれを握れば、私の首から移った熱が仄かな温度を返してくるように思える。
にっと微かに口角を上げ硬く目を瞑る。踏み出した足は、もう後には引き下がれない。






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