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□創世記;零
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――アイツが死んだ。
それは夏の初めの日で、それはとても晴れた空で、それはとても、夢のような出来事だった。


そう、それはまるで夢の中にいるような感覚。ふわふわと全てが現実味を帯びず、ただそこにあるだけ。目の前で泣き崩れる総悟も、項垂れる医者も、絡まりあう管に繋がれたアイツも。全部ぜんぶ、遠い世界のものであるようだった。
俺は世界から切り離されたのかもしれないとすら感じるほどに。

元々、そんなに長生きの出来る身体じゃなかったんだ。昔っから病弱で、ちょっと風邪を引いたといっては入退院を繰り返していた。

三年前、本格的な入院が決まってからは毎日辛い検査を受けて、外に遊びに行くこともできやしねえで。「大丈夫よ」って笑いながら、アイツはこの小さな白い部屋でどんどん弱っていった。
相向かいの部屋のババアが死に、隣部屋のジジイが死に、その度にアイツは一人この空間に取り残される。見舞いや何やでそいつの部屋にはいつも笑い声が溢れていたけれど、それでも一人ぼっちに変わりはない。

なぜならば、総悟も、近藤さんも、俺も。誰もアイツに成り代わることはできなかったから。
痛みを隠してにこにこ笑うなんて、きっと誰にもできなかったから。

神様とやらがもしいるのだとしたら、そいつは何て残酷なのだろうと思う。


――前に、前に一度だけ、アイツが俺に手を延べてきたことがあった。
「貴方が好き」と、消えそうな声で呟いた時だ。

俺はその出来事にあまりに驚いて、その反面「ああ」って思う自分がいて、体の内は燃え上がるように熱かったのに、どうしてか表面は酷く冷静だった。
こうなることが分かっていたのかもしれない。自分で言うのも何だが俺の目は人を見ることには長けていると思う。だからアイツが俺に向ける目が、総悟や近藤さんに向けるそれとは違うことを、俺はどこかで知っていたのかもしれない。

その時の気持ちは、正直な話嬉しかった。気立てはいいし見目もいいし、強いて難を挙げるとしたらその味覚とサドに目覚め始めた弟の存在くらいで、きっとそいつに好きだと言われて嫌がる野郎はどこにもいないと、そう思えるくらいいい女だった。


だけど、嗚呼、やっぱり神様は(俺は)残酷で、


嬉しい嬉しいと思いながら、表面上の冷静な俺は少しの感情の揺れも見せずに「悪ィ」と言った。どうして悪いのか、何が悪いのか。そんなの俺も彼女も分かることではない。だが告白と言うシチュエーションに慣れ切った俺の脳から弾き出された回答はそれしかなかったのだ。
そうして少し目を伏せて、アイツは俺の袖を掴む腕をだらりと垂れ下げた。「そう、」と、それだけ言って控えめに笑った、あれが後にも先にも俺が見ることの出来たそいつの泣き笑いだった。

――後悔をしているつもりはない。この先、するつもりもない。
ただ残ったのは漠然とした空虚感。ぽっかりと胸に穴が開いてしまったように、ただそこには風が通り抜けるだけ。悲しいだとか、苦しいだとか、とっくの昔に置いてきてしまったような感覚が俺を取り巻いていた。
あるのはそう、ただひたすらの喪失。…一握の寂寞。


頭上にはただ青い空が広がり、そこには夏が訪れようとしていた。高く昇る太陽は俺の髪を焦がしたが、俺がそれをどう思うことはない。

目を真っ赤にした総悟が、耳を塞ぎたくなるような言葉で俺を罵った。
それを宥める近藤さんが、見たこともないくらいに顔を歪めて歯を食いしばっていた。
真っ白のシーツに横たわるアイツは、もう二度とその目を開けることはないのだそうだ。

俺がそれらを認識するには、もう少し時間を要することになる。何故ならあの時伸ばされた白い手を取らなかった俺は、アイツにさよならを言うことすらできずにいるのだから。






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