jam

□喜劇
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――長い、永い夢を見ていました。





――アハハハハハ…
どこか遠くに人々の笑い声を聞く。ブラウン管越しに流れてくるそれは当たり前だけどこことは別の世界の出来事のように私の耳に響いた。
薄暗い室内でテキパキと服を着替える。先程まで着ていたのはほとんど部屋着のような羽織物だったけれど、今からはそうはいかない。いつだったか出世払いだと買ってもらった淡い桃色の着物。はっきり言ってこんなの私には似合わない。けれど買ってくれた人が若いんだからと勧めてくれらから、ついついつられて選んでしまったのだ。



「よしっと」



手慣れた手つきで帯を締め、皺にならないよう気をつけて袖にたすきをかける。その上から白いエプロンをすると着物はほとんど隠れてしまったが、着ているのが少し気恥ずかしい私としては全く問題はない。

テレビの電源を落として、蛍光灯から伸びる紐を数回引く。調子の悪い輪っか型のそれはどうにも一回で消えきることがないのだけれど、どういう塩梅か今日は一発で消すことが出来た。
襖をきちんと閉めたのを確認して廊下に出る。そこから続く先には既に優しい光が溢れていた。くんくんと鼻を鳴らせばいい匂いもする。どうやら煮物の仕上げに取りかかっているらしい。
とたとたと小走りになりながら廊下を駆ける。僅かな段差になった土間で草履を突っかけ、暖簾をくぐればもうそこは既に“店”の中だ。



「すいません、遅くなりました」



こちらに背を向け鍋を掻き回すその背に声をかける。おや、と、振り返ったその人の目元には今日も綺麗にアイシャドウが乗せられている。



「いや、後はこいつの仕込みだけさね。問題ないよ」



適当に調味料を混ぜながらその人――お登勢さんは言い、口元を歪めるような独特の表情で笑って見せた。

――”あの日”から早数ヶ月。色々あって、私は現在ここお登勢さんが切り盛りするスナックに身を寄せていた。



「それよかどうだィ、熱の方はもういいのかィ?」

「はい、お陰様で。いつもご迷惑ばかりですみません」



心配げな口ぶりに慌てて手を振ってみせる。お登勢さんはとても優しい人だ。

あの日、私はこの人に拾われた。どういうわけだか浜辺に打ち上げられていたところを、偶然通りかかったお登勢さんが見つけてくれたのだ。
周囲の人間(主に二階に住む銀髪天パ)に「クソババア」だの「妖怪」だのと言われるのを見るが、あの時私にはこの人が天界から使わされた天女のように見えた。命の恩人ともなれば妙なフィルターがかかって見えるものなのだ、と、そのお節介な天パに言われたが、それだけではないような…気が、する。

私には、記憶がない。正しく言うと、あの浜辺に打ち上げられた日以前数日の記憶がないのだ。
確か私は宅配員の仕事をしていたはずなのだ。そこで私はしがないアルバイトをやっていて、面倒臭い社員や気のいい仲間たちと楽しく過ごしていた――というのが最後に覚えていたことで。
どうしてあんな所にいたのか、というかそもそも何があって海なんぞに行ったのか。そこからして思い出せないのだ。確か宅配で海辺だか港だかに行ったような気はする――のだが、如何せんそこから先がすぽんと抜け落ちてしまったらしい。そのまま記憶を繋げるだけだと「宅配の勢い余って海に落下、意識を失い漂流をしていた」というのがが最有力説となっている。(しかしそんなアホらしいのは心底認めたくない)

兎に角自分でもかなり怪しいと思ったのだが、話を聞いてもお登勢さんは別段態度を変えたりはしなかった。「仕方ないね」と困ったように溜息を吐き、そうして私をこの場所へと招き入れたのだ。



『既に妙な猫耳やらアンドロイドやら、二階にも面倒なのが何人かいるから今更一人増えたって変わりゃしないよ』



お登勢さんはそう言っていたけれども、私だったらこんな怪しい人間を家に上げたりしない。そうは思うがどうしてもその温かな手を振り解くことが出来なくて、あれよあれよと行っている間に気付けばこうして厄介になっていたのだった。(因みに宅配のバイトはあっさりとクビになっていた)

人間というのは恐ろしいもので、たった数日記憶がないだけでこんなにも衰弱するらしい。
以前は丈夫だけが取り柄みたいな人間だったにも関わらず、現在の私はなんと病気がちなキャラになっていたりする。医者によれば記憶の欠落から来るストレスだとか、要するに精神的なものが原因らしいのだが、兎に角ことあるごとによく熱を出すようになってしまったのだ。
今日もそのせいでどことなく不調で、午前中の仕込みをすっかり休ませてもらった。何とか午後からはとやって来たものの、正直胸がムカムカするのが現実である。

それを察してかお登勢さんは優しい溜息を吐く。「ま、アンタがそう言うなら何も言わないけどね」そう言ってくしゃくしゃと頭を撫でる手が、一番心配だと言ってくれている気がした。






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