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□喜劇
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――疎ましく思う、恋しく想う。





血の臭いが充満していた。
堅牢豪華な建物を支える柱は朱に彩られ、天上には金をあしらった描絵がいちいちはめ込まれている。吹き抜けの最下部には大きな兎の銅像が置かれていて、見るからに別天地と――否、それどころか桃源郷と呼んでも差し支えないような街だった。
しかしそれもほんの一瞬の輝きに過ぎず、今ではそこら中に汚い赤が飛び散っている。元より朱い柱はより赤く、金箔の天上も兎の銅像も全てが赤く赤く塗りつぶされていた。

吉原花柳街――いわゆる遊郭と呼ばれるこの街は、常夜に点る一条の光かのように江戸の地下に広く根を張っている。身寄りのない女子供は皆一様にここに売られ、そうしてあの人の所有物となるのだ。
あの人…夜王鳳仙と呼ばれる男の。


奇しくも俺がこの街に滞在していると時を同じくしてその事件は起こった。何でも吉原一の美妓と謳われる日輪太夫の息子と名乗る汚い餓鬼が吉原に乗り込んできたというのだ。

無謀な子供は嫌いじゃない。若さを強さと過信している辺り、頭が悪くて滑稽だから。
精々足掻いてみればいい。鎖に繋がれた己の母を解放してやれるのか否か――降って湧いたような余興に俺は少しだけ喜びを感じていた。女も酒も好きだけどネ、あのオッサンのお手つきだなんて吐き気がするよ。いくら俺でもそこまで悪食じゃあない。

と、そんな感じで高みの見物を決め込んだのがほんの数時間前。まあ多少のちょっかいは勘弁してもらいたいところだ。何たって俺も少々鬱屈していたところだからね。
理由なんて思い当たりすぎて検討がつかないよ。――ああ、そう言えばちょっと前にお気に入りのペットを逃がしちゃったことはあったけど。

地球なんて小さな星の下らない小競り合い。腐ってもかつて師と仰いだ人がいるところだし、元老の言いつけだからやって来たに過ぎなかった吉原だったけど、中々収穫はあったと思う。
「侍」とかいう面白い人間を見つけちゃったからね。

兎にも角にもそいつらのおかげで、今俺の頭上には何と大きな光が燦然と輝いている。勿論特設の照明なんかじゃない、正真正銘の「日輪」である。
普段それなりに外にいる俺にはさほど珍しいものでもなかったが、夜王には随分久しい対面だったらしい。目をかっ開いて驚いちゃってさ、滑稽だったよ、自分が最も欲していたものに最期まで気づかないんだから。

今更のようだけど俺たち――夜兎と呼ばれる者にとって太陽は天敵である。人間たちが日焼けだなんだと騒ぐような生中な話ではなく、文字通り死活問題なのだ。少しでもその光に晒されれば肌は砂のように干上がり朽ち落ちて、終いには命まで奪われかねない。
夜王は…鳳仙は、それを承知で太陽を欲していた。承知していたからこんな湿っぽい所に逃げ住んだのだし、承知していたから忌み嫌ったのだ。

全く、見上げた生き様だよ。


太陽の下、朽ちる体にも頓着せず体を横たえる男に近寄る。長い年月を過ごした体には年輪のような皺が刻まれていた。



「人とは哀れなものだね」



語りかけるでもなかったが、ふと口がそんな言葉を紡いでいた。手には愛用の番傘。俺はまだ、干涸らびるわけには行かないから。

覗き込んだ先で鳳仙は不思議な表情をしていた。折角望んでいたものに、最も愛していたものに手が届きそうなのにちっとも満足そうではない。どころか消えるしかない己の運命を嘆いているかのようにも見えて。



「…ククク」



そこで鳳仙が笑う。



「愛?一体そんな言葉をどこで覚えてきた神威」

「………」

「そんなものわしが持ち得ぬのは貴様が一番よく知っているはずだ」



――わしと同じ道を歩む、貴様であれば。
目を閉じたまま鳳仙は言った。戦う術しか知らない俺たちは奪うことしか出来ないのだと。愛も憎しみも戦いの中にしか見出せない、哀しい生き物なのだと。



「…我らの道には、何もない」



呟いた男の顔には諦めとも達観とも言えぬ表情が浮かんでいる。閉じた瞼は日光に焼けただれ、皮膚は乾いて剥がれ落ちていく。






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