jam

□創世記;零
2ページ/5ページ



世に夏を連想させるものは沢山ある。蝉の鳴き声、花火の音、浜辺ではしゃぐ子供たち。それ以外にも例えば鬱陶しくまとわりつく熱風だとか、例えば渋滞の熱気で陽炎が踊る歩道だとか。
意外にも日常的なところに「夏」はあって、それを見る度俺は高く澄んだ空を見上げていた。眩しく照りつける太陽が血液を沸騰させ、噴き出した汗を拭えば背後から大きな笑い声が聞こえてくるのだ。

ふと立ち止まった俺を急かすようなそれは近藤さんの声で、その向こうには不機嫌そうに眉を顰める総悟が立っていて。「早くしろよ」と言外にいうその蘇芳色の瞳に俺はかったるそうな仕草で返事を返し、そうしてそんな俺たちを見、包み込むような笑いをふわりと漏らすのがあいつの役目だった。
俺の横に並ぶのは近藤さん、ほんの少しばかり離れた場所には総悟がいて、あいつはいつでも一歩下がったところから優しげな笑みを与えてくれていた。
けれど俺がそんな立ち位置を心地よいものだと知った時には、全てが帰らなくなっていたのだけれど。

――今年も同じく夏は巡るが、たった一人の人間がいないだけで、見上げた空からは色がすっかり抜け落ちてしまっている。





***





「うーい」



背後からそんな声がかけられたのは面倒にも押しつけられた委員会の仕事が一段落した時だった。近藤さんの思いつきで立ち上がった企画をどうにかこうにか取りまとめ、今さっきやっとの思いで書類として顧問に提出してきた所だ。
夏になり随分と日は長くなったが、さすがに7時も回れば少しずつ夕闇が迫り始める。廊下を歩く俺の影は壁に向かって長く背を伸ばしている。窓を見れば太陽が最後の光を両手から溢れさせているようで、悪あがきのようなそれが俺の目にはやけに眩しく映った。

ぺたぺたと気怠い音が廊下の天井にこだまする。安物の便所サンダルを履いた男の足はこの暑さにやられてか素のままである。何とも不潔そうなそれに眉を顰めていればぼりぼりとかったるそうに後頭部を掻き上げる仕草。
…どうしてこんな人間が教師という尊い職業に就けたのか、これは密かに我が校の七不思議の一つになっている。

声を掛けてきた銀八は今まで昼寝でもしていたのか酷い髪型をしていた。常からとっ散らかっている天然パーマの頭は、ある場所は潰れまたある場所は好き勝手に広がるという暴挙を見せている。
それにすら頓着せず銀八は頭を掻き回す。そこから何か出てくるのではないかとあらぬ期待を抱かせつつも、そいつは振り向いた俺の名をこれまたかったるそうに呼んで見せた。



「よー、遅くまでご苦労だねえ若者よ」

「うるせェな、副顧問が何言ってやがる」



眉間に皺を寄せてそう言えば、銀八はそらっ惚けたように「え〜?」と疑問符を返す。
さっき職員室で聞いたのだが、俺の属する風紀委員の副顧問はどうやらこの男であるらしいのだ。しかも企画しているものの資料の詳細を知るのは銀八だけらしく、顧問の教師には多大な迷惑をかけてしまったところであって。



「オメーがどこぞでサボってやがるから皺寄せが俺に来るんじゃねーか。ちったァ真面目に仕事しろやこの給料ドロボー」

「ひっでェの。そんなこと言ってるとアレよ?銀さんうっかり手ェ滑らせてお前の成績1にしちゃうかも」



かわいこぶりっこでもしているつもりなのか拗ねたように尖らせた口から出てくるのは、しかし生徒を竦み上がらせるような悪魔の台詞だった。職権乱用もいいところだ、その不毛な眼鏡を叩き割ってしまいたい。

俺の苛立ちを察してか銀八は一層そのいやらしいニヤニヤ笑いを深いものにした。さも「いいことを思いついた」とでも言いたそうな表情に、俺は嫌な予感が止まらない。



「先生の心を傷つける土方君には特別に課題を与えよっかな〜」

「何勝手に被害者ぶってんだテメーは!つーかどっちかっつったら俺の方が傷ついとるわ!」



しかし奴は俺の叫びなど聞こえてもいないかのように明後日の方向を向いて下手くそな口笛を吹き出す始末だ。明日こいつの弁当に猛毒でも混入されればいいのに。



「実は俺さァ、困ったことに宿直頼まれちゃって〜。この時代に宿直ってありえなくね?」



ご愁傷様、表面上の言葉だけで(一応)労う。
すると銀八は嫌味に気付かないのかスルーしているのか(恐らく後者だ)、「だろ?」と言いながら恭しく俺の肩に手を回して来たではないか。



「そうだよな〜、お前も俺が不憫だと思うよな〜?」

「いや思ってねェし寧ろざまァ見ろだし、つーか手ェ離しやがれ気色悪ィ」

「そんな多串君をお優しーい教え子だと見込んで頼みがある」

「はあ?」



噛み合わない話や頼み事をするにも関わらず相変わらずな銀八の態度に俺は大げさな程の声を上げる。しかし奴は笑んだのだ、それもニヤリとかそんな嫌な感じで。



「聞いてくれたら、成績1は勘弁してやるからよ」

「………」



いや、そもそも俺が何で成績を下げられねばならなかったのか。






次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ