バサラ小説

□石に描かれし魚の見る夢の哀れなこと
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石に描かれし魚の見る夢の哀れなこと







ふと手放していた意識が戻って来たと同時に鼻に激痛が走った。
小学校の時にプールで溺れ、鼻に水が入った時と同じ感覚である。
鼻や喉、その辺りの粘膜と言う粘膜がひりひりと痛み、激しく咽た途端に塩辛くて生温い液体を吐き出した。
幸い首を横に向けていたお陰で逆流による窒息など間抜けな事にはならなかった。
せっかく戻った意識をそんな間抜けな理由で手放してたまるものか。

暫く咳き込んでいると、喉がぜろぜろと嫌な音を立てた。
しかし呼吸は未だ苦しいものの、幾分かはましになる。
次に聴覚が戻ってきてこごもってはいるが波が打ち寄せる音が聞き取れた。



(俺、生きてんのか…)



ごほ、とまた咳をすると目の上に掌を乗せた。
体が冷たくて歯がかちかちと鳴る。


とても久しぶりの海釣りだった。

堤防の上に座り、竿を握り糸を垂らす。その場所は自身の指定席だった。
釣果はあったものの、それらは全て海へ還した。

夏と言う季節なだけあって周りには何人も己と同じ釣り目的の人間がうろついていたが、長い事熱中していて気付いた時には辺りの人影もうんと少なくなっていた。
釣竿と餌や針などの入ったプラスチック製のボックスを持ち、ひょいと立ち上がった時、突如吹いた潮風に煽られ足元を滑らせてしまったのだ。
それから海中でもがき、肺の酸素を使いきり、体内の力が抜け……それ以降は分からない。




ぜろぜろ、ぜろぜろ、


喉の不快感と痛み。しかし生きている分全然良かった。

手を地面に着けて上体を起そうとしたが未だ脳へ十分な酸素が行っていないらしく、激しく眩暈がしたが、ぎゅっと目を瞑ってそれをやり過ごし、ゆっくりと目を開けた。
手を着いた瞬間やけにごつごつしていると思ったが、どうやらここは岩場らしい。
ぴちょんと頬に水が垂れて来て、驚いてそれを拭い去る。
ふと視線を感じ、視線をやや落とし波打つ海へ目を向けた瞬間思わず息を飲み込んだ。
薄闇の中、まるで発光しているかの如く白い肌が己が目を劈いた。

目を細めると、琥珀色の感情の読めぬ双眼が波に揺られながら肩までを水面より出して黙って此方を見ていたのが分かる。


「アンタ、俺を 助けてくれたのか。」
自分でも驚くほどに声が出ず、掠れきったものしか出てこない。

やけに細く、白い。が、どうやら男らしく、彼はほんの一瞬目を波打ち際へ戻し、指を口元に寄せて眉根を寄せるとやけにたどたどしく口を開いた。

「名前は、何だ」

自分の質問に答えるでもなく、質問で返してきた男にやや首を傾げたが、如何せん彼は恐らく恩人だ。にっかりと笑んでその質問に答えた。
「俺は長曾我部元親だ。あんたは俺の恩人だな。礼を言うぜ。」
それにしても散々だったと笑いながらシャツの裾を絞るとやけに磯臭い水がびしゃびしゃと岩を濡らす。
ちらりと水面にたゆたう男に目をやるととても驚いた様子でその美しい琥珀の瞳を見開いていた。

「ちょ う …そかべ… もと、ちか…」

薄くてやけに色の無いその唇が自分の名前をそっと反芻させる。
「珍しい名前だろ?」
そう言って微笑むが、男は未だに此方を見つめたまま微動だにしない。
「…アンタ海に入ったままじゃ寒くねぇか?夏とはいえ、もうすっかり日も暮れちまったしな。」
そう言って口元に寄せられたままの彼の手を掴むと水面よりその細い腕が現れる。
「さ、触るな!」
「何言ってんだ体冷え切っちまうぞ」
よいしょと身を乗り出して脇へと腕を差し込むと彼は腕を突っぱねて押し返し抵抗するが、それを無視して体を抱き上げた。
彼の体はとても冷たく、軽かった。
波が彼の肌とぶつかって砕けると同時に、その姿が露わになり思わず息を飲む。

彼の白い肌は胸元から繊細なラインで下へ続き、そして両の脚…は存在せず、あるのは鱗に覆われた艶かしく濡れる魚の如き下半身。

「お前…っ」
そう言ったと同時に彼は強く元親の胸を押すと、その体をしなやかに捻らせ半回転し、正によろけた元親に追い討ちをかける様に再び胸の辺りをその半身である魚の尾で強く打つと其の儘頭から海の中へ潜ってしまった。


暫く呆然としていた元親であったがはっと我に返り海へ飛び込んだ。

先刻まで溺れて救助された側の人間であるのにも関わらず弱った体を無視し水中で目を開けた。
塩水で目が激しく痛むが、必死に堪えて辺り一面を見渡す。が、夜で視界が悪い。

しかし、元親はすぐに分かった。
その暗闇で発光するが如き白い肌が、ゆっくりとしなって水を蹴るその姿を。

一度水面に顔を出し、肺へ満杯の酸素を送ると再び息を止めて海中へ潜った。
本来ならば泳ぎが得意な元親だ。器用に水を掻き、彼の後を追う。
ちらりと彼が此方を見、僅かに慌てたような素振りを見せて水を蹴る動きを早めるが、その細い腕を元親の逞しい手が捕らえた。
振りほどこうとするが、元親も決して離さず、其の儘腕を引いて水面へと浮上していく。
元親は勢い良く海から顔を出すと胸いっぱいに酸素を吸い、そして男の両肩をがしりと掴んだ。

「何で逃げるんだ」

はぁ、はぁと肩で息をする元親に対し男は全く息を乱す事はない。


「…貴様その左目、色がおかしくて隠しているのか。」
「お前、何でそれを…」


再び質問を質問で返されたが、ここはそんな問題ではない。
家族や仲の良い友人には教えているが、初対面の他人(彼を人として考えて)にそれを一発で言い当てられるのは初めてだった。

「…お前に会いたくなど無かった。まさか、また…」
冷たい華奢な手が、肩を掴んだままの元親の手の上に添えられた。
「また…?何を言って…」

まるでうわ言の様につぶやくその彼の頬に手を寄せると、一瞬びくりと身を硬くさせたが、眉根を寄せたままそれを許した。



「…我は、言葉を話すのは400年ぶり故、上手く言えぬが…。しかし長曾我部、我の事は忘れろ。」

「400年?て言うか、忘れろって…無理に決まってるだろ!」
「無理にでも忘れろ。さもなくば、…後悔する事になる。」
頬に寄せた手をそっと引き剥がし海へと沈めるその動作は、言葉と裏腹にとても穏やかで優しいものであった。


「…納得できねぇ。」
「貴様が納得しようとしまいと関係ない。忘れろ。幸せでありたいのならば。」



決して譲らぬ彼の顔をじいと見たまま視線をずらさずにいれば彼も負けじと此方を覗き込んでくる。
その琥珀色の瞳を、昔見た事があるような感覚に陥った。

「…お前、名は、」
「…名など無い。我の名は遙か彼方に棄てて来た。」


こんな珍妙な存在に出会ったのはもちろん生まれて初めてだった。

しかし、


その白い腕を、首筋を、
頬に掛かる前髪を、



「見た事がある、俺は…お前を。」







はっと彼の目が見開かれた。

明らかに動揺して下唇が震えているのが分かる。

肩を掴んだままであった元親の片手を掴むと必死に引き剥がそうとして、もがき、元親は決してその手を剥がそうとせず、強く引き寄せ細い体を抱きしめた。
それは細くしなやかで、己の腕など裕に余ってしまう。


「俺は、この感覚を知っている…」
「やめろ、離せ、離してくれ!」


元親の胸を必死に押し返そうとし、その首筋の横で頭を振る。
濡れた彼の細い髪の毛がぴたりとくっつく。







(やめろ、元親、離してくれ!頼む、お願いだ、嫌だ!!)






「うっ…、」



頭の中をいきなりもやが掛かったようになった。
どこか夢心地のようなのに、沢山の映像が流れ込んでくる。しかしそれらはどれも不鮮明で曖昧なもので、一体何なのか判別さえ出来ない。

「もと、 な…」

かってに唇がそう動いた。ずっと昔から、知っていた言葉のように。
「やめろ、思い出すな!」




(―****、俺と、この世をずっと、)








「ずっと…、」
「やめろ、頼む、思い出すな!」



(何故、馬鹿な事を…!)
(何言ってんだ。約束したじゃねぇか****、俺と、)






「…お前と、」
「やめろ、やめて…くれ、」








(ずっと、共に在ると。…なぁ、)




「…元就…」







その名前を口にした瞬間、とても懐かしい感覚が全身を包んだ。
それと同時に身を引き裂かれる程の、悲しみとも、切なさとも言えぬ感情が込み上げて来る。











元親、我はお前を二度も不幸にしなくない!!






意識を手放す瞬間に、悲鳴とも取れる悲痛な叫びが聞こえた。




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