Book/Trance

罪に触れ愛を捨て
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俺の知っている景色は数える程しかない。

灰色の壁と白いベッド、鉄格子がはめ付けられた磨り硝子の窓。そして、その窓から差し込む太陽の光。


これ以外の物を俺は知らない。いや、知っていた、多分。でも俺は忘れてしまった。

目覚めたときに覚えていたのは自分の名前だけ。そう、半年より前の記憶は俺の頭からすっかり抜け落ちていた。
記憶喪失。

目覚めたとき、義弥は言った。僕は君の恋人だよ、と。


そして義弥はその日から、俺をこの部屋から一歩も出そうとはしなかった。




















「やだっ、も…やあ、ああ」

「音操、音操っ…音操、くん」



毎夜毎夜義弥が迫る、"行為"。その最中、義弥は何度も俺の名を呼ぶ。

ベッド以外には何も無いこの部屋でそれを壊れそうなくらいに軋めかせながら、激しく、ただ俺の名を叫んで、抱き締めていた。

突き立てられた爪は背中に跡を残す。甘い痛みは思考の全てをどろどろに溶かしていく。




義弥のことは好きだ。きっと愛してる。
いや、義弥以外の人間を知らないからそうなのか。

ただ、義弥が豹変する日暮れの時間だけは、恐怖を感じずにはいられなかった。



普段の義弥は凄く優しい。頭を撫でる手も温かい手料理も俺に向ける笑顔も。
唯一許されないのは、外の世界に触れること。

そしてその理由も、決して教えてはくれない。






「…ん、っあぁ、ひ…ああッ」



ぐ、と熱い物が俺の中に押し寄せ、目の前が白く弾けて俺は意識を手放した。
















朝。俺が目覚めるとき、必ず義弥は俺の傍に居る。
おはよう、と微笑み、温かい朝食と簡単な昼食を手渡すと、すぐに出て行く。


重い、ガチャリという鍵の音。それは未だ見ぬ世界と俺との繋がりを絶つ、余りに呆気ない閉鎖音。



それから夕方まで、義弥は一切姿を見せない。だから俺は何もすることがない。退屈、憂鬱。ただ義弥を待っている、それだけ。

たった一つ分かったのは、義弥が"仕事"に行くその時間が俺にとってとても辛いものだということ。



窓から差す光が紅に染まり始めた頃、義弥は帰って来る。

"ただいま"とも言わずに一番に俺を抱き締めて、"名前を呼んで"、と言う。"義弥、"と呼びかけると今度は、"無事でよかった"と言うのだ。


毎日血塗れで帰って来る義弥が心配だ。
それを言うと、必ず"仕事だから"、と言って笑う。
仕事って何だろう。義弥はそれも教えようとはしなかった。


そして義弥は俺に夕食を食べさせると、息つく間もなく、俺を…。
俺が目覚めてからの毎日。日付の感覚はないけれど、長い間。この生活が狂ったことは一度もなかった。








「音操、くん」

「…っ、よし、や?」

「おはよ。行って来るね、はいご飯。大人しく待ってなよ?」



また、幾度目かの同じ朝を迎える。食事が乗ったトレイを手渡すと、俺がベッドから起き上がるのも待たずに義弥は出て行った。


ガチャリ。今日も同じだ。夕焼けを待ち日暮れに怯え、義弥しか居ない世界で生きて愛を交わす。

外には何があるんだろう。気にならないと言えば嘘になる。何も知らない。何も分からない。

でも、義弥が俺に見せたくないのならば俺は見ない。そう決めていた。義弥の言葉は俺の全てだった。



はだけた衣服を直すと、俺はベッドに座った。
腰がずきずきと痛む。加減を知らない義弥の愛は昨夜も留まることはなかった。


渡された食事を手に取る。スープとパンと一杯の甘い紅茶。朝食はいつもこれだった。
紅茶を口に運ぶと甘ったるい味と香りが広がった。寧ろ少し甘すぎなんじゃないかこれ。


そんなことを考え、ドアに向き合う形で食事を摂る、俺。遅かれ早かれ気付くことにはなっただろう。運命とも言うべきそれが。

どくん、と、心臓が鳴った。








ドアが薄く開いている。


この部屋に備え付けられた唯一の出入口。
此処ではない何処かと此処を繋ぐ、閉ざされていたただ一つの扉が。


思わず我が目を疑った。注意深い義弥が、鍵をかけ忘れるだなんてミスを犯す筈がない。
そう思い何度か目を擦ってもう一度確認しても、やはりドアは開いていた。


鈍く響いていた腰の痛みが消えた気がした。

鍵のかかる音は確かに聞こえていた。いや、もしかすると俺の幻聴か?
どちらにせよ目の前の扉は開いている。




何故、という思いよりも先に。ついさっき言い聞かせたばかりの誓いも忘れ、好奇心に駆られた俺は躊躇なく扉を開いた。





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