花影 -kaei-

□誓心
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昼間の暑さも少しは和らいで、気の早い虫が草むらで静かに鳴いている。

そろそろ休もう、と姫が明かりを落とすと、月明かりに照らされた障子の向こうに影が映った。

ハッとして誰かと声をかけようとしたが、その暇はなく、影はそのままゆっくりと膝をつくといつもとは違う調子で告げた。

「…しばらく任務で出掛ける。」

それは聞きなれた声で、姫は唇を緩めて障子を開けようと立ち上がった。だが

「来るな、このままでいい。」

声の主はその気配を感じて制した。

「…佐助…どうしてですか?顔を見せてもくれないのですか?」

そう言いながら、姫は胸が苦しいのを覚えた。この違和感…
いつもならば任務に出掛けるなどといちいち言わずに行ってしまって、後から人に聞いて知るのが常だった。
それなのに、どうして今回だけは?

姫はざわめく胸の苦痛に耐えかねて、走り寄ると障子を開けた。
そして見上げる姿勢の佐助の前に座った。

ちっ、と小さな舌打ちとともにその眉が寄せられるのが、月明かりの中でもはっきりと見える。

難しい任務なのか、危険があるのか…と問い正したいのを我慢して、姫が佐助の顔を見詰めると
当の佐助はぷいと顔を背け、そして立ち上がった。

「…無事に帰って来るのを待っ…。」
「今度のは長いから。」

佐助が姫の言葉を遮って言い放つ。

こちらを見もせずに放った言葉の真意を測りかねて、姫は佐助の背中をただ、見詰めていたが
やがて意を決したように振り向いた佐助の顔が真剣であるのにまた、胸が締め付けられた。

「…待っていてはいけないのですか…?」

姫には、佐助が何をしに来たのか漠然と分かってきた。
おそらく聞きたくない事を言うのだろうが、問わずにはいられない。

「…忍びとはそういうもんだ。」

抑揚の無い口調で応えが返って来る。

「帰る保障はない。ずっとそんな仕事をして来たし、これからだってそうだ。
だから…。」

すぅ、と一息吸って続ける。

「だから、待つ女なんていらない。」
大事な人を不安にさせたまま待たせるなど、と一番言わねばならない部分を言えずに。

初めから身分が違うのは承知だったし、自分が姫を幸せになど出来るとは思っていなかった。

それでも手を差し伸べてしまったのは、自分ではどうにもならない初めての感情故で
今ならば何とか引き返せる気がした。
この姫君は名のある武将たちがこぞって求める美姫なのだ。
きっとその中に誰か、幸せな生涯を約束してくれる男が居るだろう。

忍びは忍び。
ただ、それだけの事。

やっと出た結論に、無理やり自分の想いを封じ込めて今夜ここへ来たのだ。

だが、それは姫には通じなかった。


「…そう、ですか…。」

俯いてぽつりと呟いた姫は、す、と立ち上がり文机に向かうと引き出しから懐剣を取り出した。
そして一瞬の躊躇いもなく、掴んだ自分の髪のひとふさを切り落とした。

「…!」

動きの早い佐助が飛び掛る暇もないほどに。

「な…っ何をする!」

そして次のひとふさを切ろうとする手を制しながら見ると、姫の瞳からはいく筋もの涙がこぼれていた。

佐助の胸が、ずきりと痛んだ。
自分が今、この姫に何をしたのかと強い後悔の念とともに。

「私が、勝手に待つのは良いでしょう…?髪を落として尼寺に参ります。私のところに戻って来なくてもいい、でも私は祈ります。」

力ずくで懐剣をもぎ取られても尚、姫は続けた。

「あなたの無事を。それだけは…いいでしょう?」

手を掴まれたまま、ぽろぽろとこぼれる涙を拭こうともせずに見詰められて、佐助はもう、抵抗する事を諦めねばならなかった。

ぐいと引き寄せ、その細い身体を強く抱きしめる。

「…俺は、あんたに幸せになって貰いたいんだ。」

耳元で囁かれる、初めての優しい言葉に姫の涙は更に溢れ出した。
いやいや、と小さく首を振って

「このままで、十分…。」
だからどうか、無事に…そう続けたいのに言葉にならない。

自分は忍びで、本来ならば目通りすら叶わないこの姫君に、何かしてやれる事などない。
けれど一見、今にも折れそうな頼りないこの姫が大事な時には何と驚く決断を見せる事か。

そんな姫が、自分を求めている。
失いたくない、と言う。

そして封じ込めたはずの自分の想いも。


佐助は抱きしめた姫の髪をゆっくりと撫でた。

そして、今度は確かな声で言った。

「この髪が伸びるまでには、戻って来る。」

ぎゅっ、としがみつく姫の手に力がこもり、それに応えるように佐助もまた、抱きしめる。

もう二度と、涙など流させないと固く心に誓いながら。



'10'07'31

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