赤い妄想綴り(弐) 

□祈り
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月も雲に隠れ、ぼんやりとした燈明の明かりだけのそこは、しんと静まり返って自分の息遣いさえ漏らしてはいけない気がした。
躑躅ヶ崎館の北奥に静かに佇む毘沙門堂は、そんな緊張感に満ちていてた。


(…どうか、無事に戻って来ますように…)

誰もいないこの時刻にひとり座り、一心に祈りを捧げているのは姫だ。
北の方から敵の出撃の狼煙が上がったのはついこの間の事。
準備が整えばすぐにも出陣と聞いては、居ても立っても居られずこうして毎夜祈り続けているのだ。

(一日も早く戦さが終って…)

燈明の明かりだけで照らされた毘沙門像は見上げる姫の瞳を射抜くように睨み返し、
鬼のような形相で黙って立っている。

(またいつものように穏やかな暮しに戻れますように…)

水の温む季節になったとは言え、まだ夜は冷える。
けれど姫はそんな事は構わずに固い床の上にいつまでも座り続けていた。


どのくらいの時が経ったのだろう。
それすらも分からなくなるほどの薄闇の中。

「おい。」

突然、背後から声がかかった。

「きゃあっ!」

文字通り姫が飛び上がるように体を弾かせながら振り返り悲鳴を上げた。

「な、何だよ。変な声出すなよ!」

意外にもこちらも慌てた様子の赤い忍び装束が部屋の隅に浮かび上がっている。

「だ…だって急に…。」
姫の心臓が激しく鳴っているのが、声の調子で分かる。

「ちっ、こんな時間にこんなとこ居るのが悪いんだろ。」
「そんな…。」
私はただ、祈りを…と言い掛けて止めた。

武運を祈っていたわけではない。
ただ、無事を、それだけを祈っていたなどと言ってはいけない気がした。

「どんだけここに居るんだ、出陣は近い。アンタが元気で見送らないと幸村様が心配するだろ。
いい加減に部屋に戻れよ。」

面倒臭そうに言う言葉は、その言い回しとは真逆の意味があると流石に疎い姫にも聞こえた。

「…まさか、猿飛…ずっと?私がここに来た時から居たのですか?」

「…!」

図星を突かれて、一瞬つまった佐助だがすぐに反撃に出る。

「そんな事、どーでもいいだろ!兎に角風邪でも引かれたら困る、今のアンタの役目は
出陣する幸村様の憂いにならない事だ。それくらい自覚しろ!」

「…はい。」

行き着くところは結局、心配してくれているのだと理解して姫が大人しく頷いた。
そして立ち上がりながら

「今度は猿飛も出陣するのでしょう…?必ず無事に帰って来て下さいね。」

小さな、それでも凛と響く声で言った。

一瞬驚いたような表情をした佐助だが、すぐに不機嫌そうな顔に戻すとちっ、と舌打ちして

「だからいつも言ってるだろ、忍びに無事だのなんのと言うな。ただ目の前の敵を倒す、それだけだ。
忍びは神頼みなんてしない。」

と吐き出すように言う。
「でも」
姫は珍しく食い下がった。
「でも、私は祈りますから。あなたの無事も。全員がここに戻る事も。」
「…。」

姫の目にはぼんやりとしか見えなくても、夜目の利く忍びには姫の表情が真剣であるのが見える。

先ほどまで毘沙門天を見上げていた視線を、ふん、と鼻であしらった佐助はさっさと行け、と手で示した。

促されて佐助の前を通り過ぎる時、ふわりと姫の黒髪が焚き染めた香とともに揺らぐ。

「あ…?」

急に姫が立ち止まり、佐助を凝視したが微動だにしない様子に小首をかしげ、やがて気のせいか、と再び前を向いた。
けれどすぐにまた思い直したのか、少し顔を佐助に向けて

「…幸村と共に…帰って来て下さいね。」

言おうか迷ったあげくに、小さく告げた。

「幸村様は必ず守る、アンタが心配する事はない。」
「猿飛も、です。」
「ああもうしつこいな!」

段々苛々して来たのが分かったので、姫は慌てて毘沙門堂を出た。
そのまま振り返らずに急ぎ足で部屋に戻りながらふと、さっきまでの張り詰めた不安な気持ちが薄まっているのに気づいた。

戦さに行くのを見送るのはたまらなく辛いけれど、大丈夫、きっと戻って来る、と思える。

あの忍びがついているのだから。



その後姿を見送りながら、佐助はゆっくり右手を持ち上げた。
握り締めたその手には、さっき抜き取った姫の髪が一本、あった。


    ********

もうすぐ、夜が明ける。
走り続けた足が流石に疲れて来て、そろそろ休もうか、と伝えようとして長である佐助を見た才蔵は
たいして息もあがっていない様子に驚いた。
そして、その左手首を見てこっそり、にやりと笑う。

「なんだ。」

共に走りながら、佐助が問うたが才蔵は首を振り
「いやー、今回気合が入ってるなーと思って。」
と笑いながら答えた。
するとキッときつい視線で睨まれて
「本隊が到着する前の物見だぞ、ふざけるな!」
と一喝された。

「はいはい。」
才蔵はもうそれ以上言葉にするのをやめ、陽が完全に登るまで進むのをやめないであろう佐助に付き合う事にした。

佐助の左の手甲、その手首の革紐に丁寧に巻き込まれた長い黒髪には気づかない振りをして。



'10'03'03

基本的に佐助は極力姫には関わらないようにしようとしてるのかなと思いつつ
やっぱり絡まずにはいられない、と。
才蔵の立ち位置がとても気になる今日この頃です。

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