赤い妄想綴り(弐) 

□催花雨
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その雨は、しとしとと昨夜から降り続いていた。
屋敷の屋根も、庭木も、そして縁廊下も。
それらをすっかり濡らしても尚、止む気配を見せない雨は、
まるで細い糸が垂れているがごとく天から落ちてくる。

「あー、鬱陶しいなあ。」
部屋の入り口に座り、その様子をじっと眺めていた姫の背後から五右衛門が珍しく抑えた声で言った。
抑えた、と言っても普通の人ならば少し張り上げた程度の声であったが。

「いつまで降るんだろうな、この雨。じとじとしてやる気が起きねーよ。」
「五右衛門ったら…。」
姫が顔だけ後ろに向けて、笑った。
「この時期の雨は催花雨と言って、花芽を誘う雨なのよ。一雨ごとに暖かくなって、花が咲くなんて良いでしょ?」

それだけ言うと、再び顔を戻して中庭の雨模様を眺める姫に、五右衛門はそんなもんかね、と
納得の行かない表情を向け、そしてふう、と鼻から息を漏らすと
「まあ忍びが雨に濡れるのが嫌だなんて言ってられねーしな!んじゃちょっと、体動かして来るぜ!」
すぐに気分が切り替わったらしく、姫の真ん前を素早く横切って庭に飛び出した。

見送る姫の視線から、五右衛門の姿はすぐに消えた。
そしてまた、何事もなかったかのように雨が振り続ける。

屋根を伝わり、軒先からしずくとなって垂れ落ちる水滴が忙しげに地面を目指す。
次から次へと続くそのしずくは、果てる事のない命の営みを思わせた。

…やがてこのしずくは土に染みて草木に宿ったり、河川に繋がって海へと旅立ったり…。

「花を誘う大切な雨であったり…。」

姫は小さく声に出して言ってみた。
このしとやかに降り続ける雨が実は、どれほどの役目を担っている事か。

ふと、自分に重ねてみる。
…私は?

そんな事を考えようとは思いもせず、姫は胸を押さえた。
…私は、何か役に立っているのだろうか。

こうしてただ、降る雨を眺めて時間を過しているだけの自分が。

…私はここで、いったい何が出来るのだろう…。

姫の心の中にまで、しとしととまだ冷たい雨が降り込むかに思えた。


と、にわかに庭の向こうが騒がしくなった。

「雨の日だって戦はあるだろ!」
「だからと言って、いきなり飛び込んで来るのは乱暴過ぎる!」
「あのなー、敵はいつ来るかわかんないんだぜー!?」
「そのために俺たちは常に鍛練しているのです!」

どうやら、五右衛門が幸村たちの鍛練場に断りもなく突入して騒ぎを起こしたらしい。
それで争いながらここまで来たのか分からないが、雨の中から姿を現した二人はすっかり濡れそぼり、
また派手に泥だらけだった。

「…まあ…。」
思わず姫が両手で口を押さえるほどに。

「姫様…!このような姿で申し訳ありません!」
姫が見ているのに気づいた幸村が慌てたが、立ち上がった姫は驚いているだけではなかった。

「今、拭くものを持って来ますから。」
すぐさま部屋に入り、物入れを開けながら姫の口元が緩んだ。
そして手拭いを取ると、縁廊下に上がった二人に向かった。

「こんなに汚れて…困った人たちですね。」
姫はまず一枚広げて持つと、手を上げて幸村の頭を拭いた。
「…ひ、姫様…。」
慌てて赤くなる幸村にハッとして手を引っ込めると、その横で五右衛門が口を尖らせている。
「…俺は?」
「あ…ご、ごめん…五右衛門。」
急いでもう一枚で五右衛門の顔の泥を拭いてやるが、顔全部なのでなかなか取れない。
「痛!泥が痛え!」
姫の力に五右衛門が大げさに叫ぶと、先ほどの手拭いを受け取り自分で頭を拭いていた幸村が眉を寄せて叫んだ。
「五右衛門様!それではまるで赤子、ご自分で拭いたらどうだ!」
「へっ、さっきは拭いて貰って赤くなってたくせに。いいのー、俺は。」
なー、姫?と言いたげに五右衛門があごを突き出すと、益々幸村の眉が吊り上がった。
けれど我慢も限界のようで

「な、ならば俺も!姫様、俺も拭いて下さい!」

とまるで何か言いつけを待つかのように背筋を伸ばし、五右衛門の横に膝をつく。
まだまだ降り続く雨を背に。

「…。」
姫は並んだ二人の男たちを呆れるように見て、そしてくすくす笑った。

「はい、それでは二人とも私が拭いて差し上げます。」

そのとたん、俺が先だいや拙者だ、と小さな諍いが起こったが
それを見守る姫の胸には、先ほどの痛みはもう、なかった。


雨はなかなか止まない。
その静かな水音を聞きながら、姫は自分自身が催花雨である事に気づいてはいなかった。



'10'03'16

お館様完結編で佐助が「(傾国と言うけど)そうではない」みたいな事言ってたと思うのですが
それがとても気になります。
きっと姫の存在は甲斐にとって吉慶なのだと言いたかったのでしょうか。
…これはお館様が五右衛門の忍具で何を思ったのかと同じくらいの私的謎です。

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