赤い妄想綴り(弐) 

□君が袖
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端午の節句、または菖蒲の節句。
それは乱世に生きる武将達にも重要な儀式である。


「もうこのくらいで良かろう。」
信玄が両手に余るほどの菖蒲を抱えて、曲げていた腰を起こした。
そして、近くで蓬を摘んでは籠に入れている姫に笑いかける。
「こうしておると、額田王と天武天皇のようだのう。」
姫がそれに答えて微笑むと信玄は、つい、と視線を少し離れた場所に向けた。
そこには、やはり信玄と同じくらい菖蒲を抱えた幸村がこちらを見ていて、姫の視線を感じると少しはにかんだような笑顔で反応した。

「…あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる…ですね。」
「ふふ、しかしあの無粋者は、吾恋ひめやも、などとは詠めぬな。」

姫が詠んだ額田王の歌に、大海人皇子の句を口にして信玄が笑う。

「兄弟で一人の女性を争うなど、辛い事です。」
けれど、姫は悲しそうに目を伏せた。
「さしずめ、我が兄と言うところだろうが、決して無理に弟から取り上げたりはせぬぞ。」
そんな姫に、信玄は余裕の笑みで返す。そして
「さあさあ、額田王の摘んだ蓬と、我の菖蒲で節句飾りを作らねばな。
今宵は菖蒲湯を飲み、菖蒲風呂に入るのだぞ。」
自然な形で姫の肩を抱き、ゆっくりと歩き出した。
「…我と共に、な。」
そして、さりげなく付け加える。
「それは駄目です、お館様。」
と、いつの間に近づいていたのか、後ろから幸村が言った。
「姫様と入浴など…そんな…。」
「聞こえたか、耳が良いのう。だがな幸村、姫が入りたいと言えば我は遠慮せぬぞ。」
のう、姫?と顔を見られて、姫はあからさまにも断れず困った表情で幸村を見る。
「姫様…お館様とお入りになりたいのですか…?苦…ッせ、拙者とでは…。」
その視線に当てられたかのように、頬を染めながら幸村が言うと
「ふむ、選ぶが良い、姫。我と幸村、どちらと入浴するか?」
面白そうに信玄が尋ねた。

なぜそこに『一人で入る』と言う選択肢がないのかと言いたくなったが、
別にどちらを選んでも構わぬと言う余裕の笑みの信玄と
珍しくこのような話題に参入した少々俯き加減の幸村とを見ていると
なんとも可笑しくなってくる。

「菖蒲は尚武…武を尊ぶにかけたと聞いておりますから、今宵は殿方の湯でございましょう。
女子とではなく、お二人でお入りになられた方が良いと思います。」

「…逃げ方が上手くなったのう、姫。ふふ、そんな色気のない湯ならば一人の方がマシじゃ。」
信玄が愉快そうに笑い、歩き出したので幸村もまた、少し残念そうな、それでいて安堵したような表情で続いた。


   **********


軒下に蓬と菖蒲を飾られた躑躅ヶ崎館の奥に、ひっそりと佇む湯場。
姫は昼間摘んだ菖蒲の葉が浮かぶ湯につかりながら、ほう、とため息をついた。

戦さに勝つ事を願い、武に長けよと想いをこめた菖蒲。
うすぐらい燈明の中でも、その葉は刃にも似て白い指先が触れれば切れてしまいそうだ。

…刃…勝負、戦さ…。

姫はどれもあまり心躍るものではないと思いながらも、それでは本懐はどうする?と自問していた。

(…誰も…誰にも傷ついて欲しくない…)

その脳裏には、親しんだ甲斐の面々が浮かんでいる。
(信玄様も、幸村も…十勇士たちも…)

けれどいずれ彼らは自分たちの戦いと言いながらも姫の本懐を遂げようと戦場へと身を投じるだろう。
それこそが己の望みでもあるはず。
(でも…)

平和な甲斐の暮らしが、いつのまにかずっと続くのではと錯覚している自分に驚いた。

と、その時格子状に開いた窓の外から声がかかった。
「姫様。」
「えっ、ゆ、幸村!?」

慌てて湯に肩まで浸かると、その気配に幸村も焦ったようだ。
「し、失礼します。決して覗いたりは致しませんから!」
「どうしたのです…こんなところに…?」

それでも姫は首まで湯に浸けて、窓に向かって問うた。

「…姫様、菖蒲の節句の意味をご存知ですか…?」
すると、反対に質問が返って来た。
「ええ…厄災を祓うために蓬などと共に清めるのですよね?」
「はい。けれど、甲斐にはそれでは祓えぬものがあるのです。」
「…え?」

「姫様は、拙者がお守りします。」

一言、きりりと言い放つと、幸村が姫ではなく他方に叫ぶのが聞こえた。

「駄目です、お館様!今は姫様のご入浴中…お館様は先ほど入られたではないですか!」

「なんじゃ幸村、そう言うお前こそなんでそこに居る。」
「お館様から姫様をお守りするためです!」
「むう、お前主をなんと心得る!?」
「とにかく、ここから先には一歩もお通ししません!」
「ええい、いっそ我は天智になるぞ!」
「何をおっしゃってるのかわかりませんっ!」

二人が外で言い合う声を聞きながら、姫はくすくす、と笑った。
先ほどまで考え込んで暗くなっていたのが嘘のようだ。

甲斐の菖蒲が、邪気も憂鬱も祓ってくれたように。

「でも」

姫がそっと、ひとりごちた。

「私は額田王にはなりません、お館様…。」

お湯の中でそっと触れた菖蒲の葉は、意外にも柔らかく、姫は外の騒ぎがまるで子守唄かのように目をつぶった。



'10'03'30

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