赤い妄想綴り(弐)
□守り目
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普段はいつも男ばかりの中で過ごしているし、元々あまり他人に対して気を遣う性質でもない。
人の部屋に入る時でも一声かけるのはまだ良い方で、仲間同士では私室の感覚は皆無なので
いつでも自由に行き来している。
それが言い訳になるとは思えないが、佐助は「おい」と言うのと同時に勢いよく開けた障子の奥で
まだ夢の中にいたらしい姫が吃驚して飛び起きた姿に、ちょっと戸惑っていた。
「ご、ごめんなさいっ。なんでしょうか。」
きゃっ!と小さな悲鳴の後で、大して乱れてもいない夜着の胸元を合わせた姫は
その無礼を咎めるどころか自分が謝りつつ、寝る時に掛けていた小袖を手繰り寄せた。
「…。」
人が起きる時間とか、相手が年頃の女子だとか、少し考えれば分かりそうなものだ。
人に見せる姿ではないらしく、はっきり言って困った顔の姫に、佐助も固まってしまう。
流石にこれはまずかったかな、と佐助はちらりと思ったがそう簡単に謝る口は持っていない。
「なんだ、まだ寝てたのかよ。お天道様はとっくに登ってるんだぜ?幸村様は相当あんたに甘いんだな。
もうすぐ朝餉が出来る。さっさと虎の間に来な。」
突き放すように言いながら見ると、姫が握っている小袖が裏返しであるのに気付いた。
姫も、佐助の言葉が終るのをじっと待っていたが、その視線が小袖にあるのを見てはにかんで笑った。
「…裏返した着物を掛けて寝ると…夢で会いたい人に会えると言いますから…。」
姫の頬が赤らむのと小袖とを見比べていた佐助の脳裏に、数日前の幸村の顔が浮かんだ。
『留守中、姫様を頼むぞ。お前ならば安心だ。』
信玄の使いで三河に向かった幸村が言い置いたのは確かな信頼だった。
それに背く事は決してないと誓えるが、あいにく対応の仕方までは命じられなかった。
けれど、赤くなって俯いた姫の少しだけ乱れた黒髪がなんとも艶っぽく感じられて、
佐助はその自分の鼓動にムッとして眉を寄せた。
…幸村様か。
夢にと望んだ相手は、聞かなくても分かる。
裏返した着物などと言う、まじないが利くとは思えないがそれを信じて昨晩わざわざそんな事をする姫を想像して尚の事鼓動が早くなった。
「で、会えたのかよ?」
あまりに居心地悪くて佐助が馬鹿にしたように聞くと、姫が顔を上げて晴れやかに笑った。
…会えたのか。
と、ざわめく心に痛みを覚えて思った時
「目を開けたら、佐助が居ました。」
ふふふ、と口を押さえて笑いながら姫が言う。
「今、佐助に、会えました。」
まるで中庭を照らす太陽のように輝く笑顔で見上げる姫の視線に、佐助は自分の表情が強張るのをはっきり感じた。
ナンダソノエガオハ…!
その言葉の意味が、どのように受け取られるかなど考えていないのだろう。
しかもその笑顔が向けられた者が戸惑う事も。
「馬鹿な事言ってないで早く支度しろ!飯だ飯!」
狼狽した顔を見られたくなくて、慌てて後ろを向いて叫ぶ佐助に、姫が小さくはい、と答えた。
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いつもより早く起きたせいか、時間がゆっくりと流れる気がする。
穏やかな陽気で、信玄の話し相手をしているととてものんびりとした気分だ。
「姫、良い顔をしておるな。」
ふいに、信玄が姫の顔をまじまじと見て言った。
その目は満足そうに笑っている。
「幸村もおらぬと言うのに、そんな明るい表情でおるとは何か心に変化でもあったのではないか?」
それはもしや我に…と続けずとも分かりやすい笑顔を向けた信玄に、姫も微笑む。
「幸村は傍におりませんが、私を気遣ってくれているのが良く分かりますから。」
「それは今、我に向かって小石を投げつけようとしているあやつの事か?」
信玄が姫に伸ばしかけた手を庭に向けると、人影がサッと木の向こうに隠れた。
「まったく、主に向かって不敬極まるわ。幸村め、何と言いつけて行きおったか知らぬが…。」
言いながら信玄がわざと大げさな動作で姫を抱き寄せようとすると、案の定ものすごい勢いで小石が飛んできた。
自分の頭に向かって来たそれを、姫に読んでやっていた和歌集で受けると
「ふふ、これくらいで怯む我ではないわ。」
にやりと不敵な笑みを庭に向け、そのまま姫の方は見ずに、それでいて強引に抱き寄せた。
「姫に当てたら承知せぬぞ、佐助!」
ははは、と高らかに笑いながらぎゅうと抱き締められた姫は驚きと窮屈さで声も出せない。
けれど、その密着度の高さはすぐに解消された。
佐助が庭から飛び込んで来る前に、天井から音も無く降りて来た影が腰に手を当てて二人の前に立ちはだかったのだ。
「はいはいもうお遊びはそれくらいにしましょうね、お館様。姫様が苦しそうですよ。早く離さないと小石で済みませんが良いですか?」
その影、才蔵が指し示した佐助は両手に余る大きな庭石を今にも投げつけそうな形相で持ち上げていた。
「…幸村がおる時よりも警備が厳重だのう…つまらぬ。」
信玄は名残惜しそうに姫を離し、軽く目くばせをすると
「退屈な時はいつでも相手をするぞ。いつでも、な。」
意味ありげな笑みも投げるとゆっくり立ち上がって石を持ち上げたままの佐助に
よしよしその調子で姫を警護せよ、と勧励までして姫の部屋を後にした。
「ありがとう、才蔵。でも大丈夫ですよ。」
姫が笑いながら言うと、才蔵が佐助の走り去っていく姿を見送りながら
「お館様はどこまでが本気かわからないからねぇ。まあ幸村様が帰るまで佐助が離れないから大丈夫だとは思うけど。」
と呟くように言った。
それには姫もふふ、と声を出して笑い
「佐助ったら、本当に幸村に忠実なのですね…言いつけられたからと言ってここまでしなくても良いのに。」
もう見えなくなった佐助の姿を探すかのように中庭に目を向けた。
「…言いつけられたから、だけじゃないと思うけどね…。」
ぽそりと呟いた台詞は姫の耳には届かず、なんですか?と言う瞳で見上げられた才蔵はにっこり笑うと
「いいのいいの、姫様はそのままで。早く幸村様が帰って来るといいですねぇ。」
その言葉に頬を染めた姫は、もう、と少し口を尖らせたが、すぐに笑顔になった。
「…そうですね…。」
帰って来るまで、また今夜も小袖を裏返して掛けよう。
そうしたらきっと…。
'10'05'25
思わせぶりな姫様。
悪気は無いだけにとっても困る美姫ですね。
この後、佐助はずっと姫様に張り付いてて幸村が帰って来た時には疲労困憊の予感です。(笑)
「ちっ、任務の方がよっぽどマシだ!」