新婚さん

□新婚さんいらっしゃい 6
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とくん、と小さな音をたてて杯が満たされた。
夏の間開け放たれていた、中庭を望む部屋の障子は今はもう冷たい風のために閉められているが
すでに夜の闇に包まれてはその枯れた風情も見る事は出来ない。

「幸村、今日は何かあったのですか?」

それまでずっと聞きたかった事をやっと、姫が口にした。

「え。」

何度目かの酌を飲み干そうとして、幸村が姫を凝視する。

「な、何もございませんが。」
視線が泳ぐ正直者に姫が思わず笑う。
「なぜ、そのような事を…?」
そして今度は幸村の方が問う。

常ならば帰宅したらすぐに使用人が「邪魔ですからいい加減部屋に上がって下さい」と思うほど
玄関で長く熱く抱きしめるのに、今日はしなかったから…とは流石に答えにくい。

「だって、顔色が少し悪い気がしますから。」
当たり障りなく姫が言うと、幸村が杯を持っていない方の手で自分の頬を撫でた。
「そ、そうでしょうか。そんなに悩んでいるつもりはないのですが。」
「やっぱり何か悩んでいるのですね?」
「あ。」

幸村が一瞬口を開けたままの表情を固めたが、すぐにグイッと杯をあおった。

「お仕事の事なれば、話せない事もあるでしょう。でも無理はしないで下さいね。」
その杯にまた、酒を注ごうとする姫の手を、幸村が強く握る。
「ご心配かけて申し訳ありません。し、仕事ではないのです。俺は…!」
酔いのせいか頬を紅潮させながら、幸村の目は真剣そのものであった。


 *********

それはまだ執務中の午後、少し気も緩みがちな時間でも書類整理に余念のない幸村のところへ信玄がやって来た。
「精が出るのう、幸村。」
「はい、後で届けますゆえご覧になって下さい。」
信玄は書机の上に山と詰まれた紙の束をちらりと見てうんざりした顔をしたが、
すぐに気を取り直して指であごを擦った。
たいてい、信玄がこう言う仕草をする時は何某かの被害を被っているのだが、部下曰く
「馬鹿じゃないけどお人好し」の幸村は気づいていない。

「うむ、まあそれは良い。のう幸村、今年もそろそろアレの時期じゃのう。」

アレ、と言われて幸村が顔を上げる。
穏やかに、けれども若干悪戯っぽく笑う信玄と視線が合う。
「…今年も、催されるのですか…。」
「当たり前じゃ!これは武家のたしなみ。そろそろ苦手などと言ってもおられぬぞ。」
「…しかし苦手なものは苦手です。拙者は武士として槍を持つ方が…。」
「お主の一番の弱点、女子苦手は克服したではないか。それに比べれば
"年忘れ 連歌の会"など軽いものよ。楽しみにしておるぞ、良いな。」
信玄はそう言ってしまうともう、幸村の反応など気にも留めずにさっさと出て行ってしまった。


 ********


「連歌…ですか。」
手を握られたまま、姫が聞き直した。
「はい。昨年までは他国に出掛けていたり実家に戻っていたりで出席せずに済んでいたのですが…。
今年はどうしても、と。」
姫は本気で困っている幸村の顔をじぃっと見詰めた。
戦場でのその名は高く、出陣したと聞けば逃げ出す相手もいるほどの武人でありながら
鎧を解いた彼はなんと潔いほど途上の若者であるのか。

姫はぎゅっ、と幸村の手を握り返した。
そしてハッとする夫の顔に近づきながら
「微力ではありますが…私と共に学びましょう。」
と自分で納得したかのように頷いた。
「ま、学び…?」
「はい。」
姫が手を取ったまま立ち上がり、幸村を促した。


「姫…そ、そんな…。」
いざなわれた場所はすでに床を延べた姫の部屋で、入るなり頓珍漢な対応を見せた幸村だが
姫がいそいそと書棚を探り始めたので、床の前に一人で取り残される形になった。
「…まずはこんなものでしょうか。」
姫は数冊の書物を幸村の前に並べた。
「古い時代からの和歌集です。いきなり連歌は難しいでしょうから、和歌を知りましょう。」

学ぶ、とはこう言う事であったか。
幸村は思わぬ展開に戸惑いを感じたが、とてもそんな素振りを見せられる雰囲気ではない。
姫のこんな嬉々としている表情は初めて見る気がする。

「難しく考える事はありません。自分の気持ちを正直に詠えば良いのです。ほら、この句は
月令を元に詠んだとされ……幸村?」

書物を広げて示し説明する様子が生き生きとして美しい…などと見とれていたら姫が唇を尖らせた。

「聞いていますか?年末まで時間がありません、私が知る限りの事をお伝えしたいのです。」
「…厳しいですね。」
意外な一面を見たようで、幸村が苦笑して言うと姫の頬が赤くなった。
「…槍の稽古では幸村が教えてくれたから…。」
少し言葉が弱くなったのを、今度は可愛らしいと思う。
「厳しかったですか?」
こくん、と頷くのがまた愛しい。
勢いがついて思わず抱きしめようとしたが、バッと目の前に和歌集が差し出された。
「ですから、今度は私がお役に立ちたいのです。さあ、先人たちの詠まれた歌をご覧下さいな。」
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