鬼閻甘3

□その赤の名は知らない
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グチャグチャの何かが、目の前に転がっていた。悪くなった桃と灰褐色に、濁った赤をぶちまけた物体はひゅーひゅー耳障りな音を立てている。醜悪を通り越して、汚物だ。食いかけの残骸。これは、なんだっけ。
鬼男君、後ろから耳慣れた声が言った。

「コップが空っぽだよ」

振り返ると、真っ青な顔をそむけた大王が高々とグラスを掲げていた。午後一番で僕が入れたブラッドオレンジジュース、真っ赤なそれがまだ半分、ゆらゆら波打っている。

あ、またやってしまった。ベタベタになった手を見下ろして、思わず舌打ちをする。制服もべちゃべちゃしているし、何より口の中が生臭い。歯磨きまではできなくても、今すぐ口をゆすぎたい。

「申し訳ありません、大王。
 すぐに片付けます」

仕方なく飲み下した肉片が脂っぽくて気持ちが悪い。べっとりとした嫌な苦さが舌を刺す。
今日は何でこうなったんだっけ。中年の、しかも脂ぎったデブ、見るからに不味そうだったから食欲にかられたわけじゃなさそうだ。
これじゃあ、今日はご褒美がもらえない。八つ当たりを込めて、うごうご蠢く食べ残し――もとい、再生しかけている死者を足で踏む。やめなさいと大王の声。そういえば、さっきも聞いた。

ああ、そうだ。
このヤロウ、確か、罪状は妄語。
なんでも、生きている間は『お客様は神様です』を盛大に拡大解釈して、いろんなところで重箱の隅をつつくようなことや、あることないことブヒブヒ喚きくバカ、大王が言うにはクレーマーとかいう輩だったらしい。その卑劣で薄汚い鳴き声のせいで精神を病んだり、自殺をした人間がいたとかで、殺生も追加。羞恥心と良心を、脂肪で何重にも包んで腹の奥にしまったようなソイツが、ここでやったことは生前そのまんまだ。地獄行きなんてふざけるなだの、僕の顔が気に食わないだの、暢気にオレンジジュースなんて飲みやがってだの。生前の行いは死んだくらいじゃ改まらないだろうが、生憎ここはお客様センターとかいうトコじゃない。裁判長様は神様です。

当然、ブヒブヒ言っても結果は同じだ。
が、ソイツは下品な口から泡を飛ばしながら机を叩き、更にはこんなもの!と閻魔帳を掴もうとして、大王の指に触りやがった。できそこないのソーセージが。だから、床に叩きつけてやって、脳天かち割った。やめなさい、はそこで聞いたんだろう。そこから先はイマイチ覚えていない。
大方、大王が僕の食べっぷりに悲鳴を上げて、この肉塊がそれに輪唱して加わっていた、とかそんなところだろう。
悪ゴメスの時は我慢しすぎて、大王に助けを求めるなんて無様な姿をさらすし、自制しなければしないで制服を汚すし、ご褒美は抜きだろうし、散々だ。
大王も大王だ。今までの秘書だってみんな鬼だったんだから、こっちばっかり教育しようとしてないで、まずお前が慣れろ。
知ってか知らずか、大王が僕を呼んだ。こっちを見ないようにそっぽを向いたまま尋ねる。

「その人、どうするつもり?」
「当然。ゴミはゴミ箱へ、罪人は地獄へ」
「そのままでかい。
 ここはいいから、早く手を洗って着替えてきなさい。あと今日は君、資料庫の整理」
「でも、」
「でもじゃなくて、ちょっとは私のいうことをきこうね?ほら、さっさと行く」

大王、大丈夫ですか、と聞けば、後少しで元に戻るもの、と唇が少し笑う。ゴキゲンのほどは、そう悪くないと見た。

「何かあったら、とにかく喚んでくださいよ?
 あ、緊急脱出してもいいですから、とにかくソレに触らないこと、触られないこと。臭いが移ったら大変です。コイツ、本当に不味いです。下衆の味がしました」
「そう心配しなくても、この人だってそんな気はもうないでしょうよ。大体、こういう喚くタイプは、吠えるくらいで実力行使なんて出来ないんだから」くすくすと、小さな笑い声が漏れる。大王のそれと同じで軽く、ちょっと甘い。聞いているだけで、生唾がわく。
今度こそ、赤い唇が笑った。グラスの中のそれよりももっと濃い色。
「終業したら、オレの居室に来なさい。躾し直すからそのつもりで」
「わかりました」

一礼して、裁きの間を後にする。
とりあえず、身体を洗おう。この鉄錆臭い臭いが石鹸のそれに変わるまで、それから口も歯磨きしてブレスケアを忘れずに。
もしかすると、ご褒美は諦めなくてもいいかもしれないから。



乾いた手が僕の頭を撫でる。髪を梳いて、頬に触れて、角をなぞって、愛撫する。床に座し、頭をその膝に預けるようにして、その細い感触を甘受する。
腕が動くたびに、柔らかな寝巻きの袖が頬にあたってこそばい。
はい、ここで復習をします、ご唱和ください。

「裁きの間では、」
「裁きの間では、」
大王が大げさな咳払いを一つして、息を整える。
「罪人でもやっつけちゃダメ!殴る蹴る縛るまで!蹴っても頭割らない!爪立てない!噛まない!食べない!飲み込まない!」

はい、と言うから、そっくりその言葉をなぞる。一息で一気に言うのが大王流。
一体何人の先輩が、こうやって頭を抱かれながらそれを繰り返したんだろう。少しばかり考える。紀元前から存在する大王が、いつから地獄の主になったかは知らないし、どういう経緯で秘書という役職ができたのかは知らないが、百や二百じゃ利かないだろう。それでも、地獄や役所で働く同僚に比べれば一握り程度だ。
獄卒の中でも、秘書はちょっと特別な存在だ。何故なら、他の幹部に比べて格段に若い、現世でいうところの新卒の鬼が登用される。どうしてか、表向きは将来の幹部として大王に直に、そして長くご指導頂くため――なんてことになっているが、実際のところ躾がしやすいからってことだろう。地獄に勤務した鬼だと、トラブルを治めるにはまず実力行使、豪快に力技、罪人を噛み千切ったり、ぶん殴ってスイカ割りよろしく破裂させたりが普通。だってどうせ治るし。だけども、血が苦手でいちいち泣きだす大王には、そんな人体解体ショー、連日アリーナ席に強制ご招待はきつすぎる。
そういうわけで、僕のようなひよっこが秘書に任じられる。さっきの標語を唱和したり、暗示――僕の場合は『グラスが空っぽ』がキーワードだ、で食欲や破壊の衝動を抑え込む、そういう躾をする為に。犬のそれとさほど変わらない。といっても、鬼にとってはその二つは切っても切り離せないお約束みたいなものだから、今日のようなことはそれなりに起こる。美味しいご褒美が待っていても、その衝動の前では根の浅い躾なんてないも同然だ。獄卒だもの。鬼だもの。

「こればっかりは慣れてもらうしかないけどさ、鬼男君はやればできる子なんだから、」ね、頼むよっと大王が小首を傾げる。「ゴメスさんの時は手加減できたじゃない?今までの中でも五本の指に入るくらい優秀だよ……今までで一番、口が悪、いやいや、辛辣だけど」
「口が悪いのは認めますけど、僕は嘘は言ってませんよ。そもそも大王がヘタレなのが悪いんです。大王さえビビらなきゃ、僕の仕事はもっと楽なんです」

まあ、そうだけどね、と痩せた身体が寝台に転がる。寝巻きの裾が割れて、棒のような脚が飛び出した。手招く手と同じく申し訳程度にしか肉がなくて、お世辞にも美味しそうだとは言えない。横に寝そべると、ころんと反転して額が肩にぶつかった。
こうやって、大王の横に寝そべるのも、僕で何人目なんだろうか。すてきな恋がしたいとか呟くだけあって、気が多すぎるんじゃないだろうか。躾にはスキンシップが必要不可欠とか、どういう発想だ。
思わず、溜息が洩れる。それに付き合う自分に対して。
でもさ、呟くような声が言う。言い訳がましいそれは、きっと僕の嘆息への、明後日を向いた返答。

「あそこは最後の場所だから。あの先はずーっと暴力とか痛みとかばっかりだからさ、あそこでくらい最後の言葉を言わせてあげたいし、血を流さずに済ませてもいいんじゃないかなって思うんだ」
「……そういうことは、死者をひれ伏せさせるくらい威厳を醸し出してから言ってほしいです」
「ブー。ホント口が悪いな鬼男君は。躾のし甲斐があるよ。
 はい、手、出して」

差し出す間もなく、大王の手が僕の右手を捕まえると、懐から取り出した何かを薬指に通した。
はい、と返された手を見れば、大王の目と同じ、鮮やかに燃えるようなそれが指の根元に嵌っている。うん、思った通りよく似合うよ、と嬉しげに笑ってそれをなぞる。

「条件付け法じゃやっぱり生ぬるいからさ、これからは身体に教えることにしたよ」
「て、指輪ですよね、これ」

普通のそれより少し太く、ぴったり嵌っていて抜けそうにない。一体何で出来ているのか、ほんのりあたたかかった。
首輪のつもりですか、と問えば似たようなものだよと返る。

「首輪だと外見的に虐待とか…また君に変態呼ばわりされかねないし、大体、業務中邪魔じゃん。」やけに早口で言うと、指輪をつついた。「結構カッコいいでしょ?気合入れて作った一点物だよ」
「でも、ただの指輪じゃないんでしょう?」
「もち。また鬼男君がおイタをした時には、燃えます!」
「え、マジですか」
「マジ。それ地獄の種火で作ったから」

殺す気か!思わず伸びた爪が大王の額を貫く。ちょ、言ってるそばから躊躇ないな、と大王はひっくり返ったまま溜息を吐いた。物憂げな顔をしてみたところで、爪が刺さったままじゃ間抜けでしかない。ぽたぽた落ちる血の雫が敷布に垂れた。
もったいない。零れた赤を舌ですくうと、じゅんわり甘みが口中に広がって、するり喉に落ちる。肉と言うよりは果物から滴り落ちる果汁のようなそれ。もう少しと舌をのばしたら、つまみ食いはダメ、と鼻を摘ままれた。

「オレが火加減を間違えて、大事な鬼男君が黒焦げーとかそんなことあるわけないじゃん。ちょっとチリってするだけだよ」
「へー…どうだか」
「む、なんだその目は。なんなら今やってみようか?」
「なら、あんたも巻き添えです」

逃げられないように抱きしめれば、抵抗もなくおさまる。骨張った感触。
首筋から香る、例の匂い。これを嗅いだだけでどうしようもなくて、いても立ってもいられなくなる。今すぐ顔を埋めて貪りたい。だけど、そうしたら最後、それを味わうことはかなわなくなるだろう。

「残念だけど、地獄の火でも、オレは平気なんだよ。ちょっとくらいなら火傷するかもだけど。」もう塞がった皮膚を指して笑う。「こんなふうにすぐ治っちゃう。だからやるだけ損だよ。止めておきなさい」
「なーんだ。いざとなったらあんたと心中できると思ったのに」
「わ、鬼男君たら大胆」
「そりゃあ、こんなものをいただけば。あーでも、大王にとっちゃ毎度のことでしょうけど」

拗ねない拗ねない、と大王は笑う。言ったろ、それは一点物だって。
意味を問う前に、冷たい指が僕の唇をなぞり、自分の寝間着をはだけた。さあ、どうぞ。さらされた肌。牙を立てて噛みつけば、血色の果汁よりずっと濃いものが溢れだして、理性を呆気なく溶解させる。
これを堪能したら終わったら、もう一度聞いてみよう。

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