ドレッシング

□他人
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出勤というのはなかなかに面倒なものだ。

何が面倒かというと、まず移動であろう。
こんな辺鄙な場所までぎーぎー牛車に揺られて行くわけにもいかぬ。
行きも帰りもぽくぽくと歩いて行かねばならぬ。

小野一族への過大評価は有りがたい限りだが、こればっかりはどうもいただけない。夜這いでもあるまいに、そう毎晩毎晩じゃあ身が保たぬ。迎えくらいよこさんか。あのけちんぼう大王め。
そう愚痴っても予算を組んでいただけるわけがもない。
歩いてまいれと言われれば、歩くしかないのが宮仕えの悲しいところと言える。照れ隠しに雷を捕まえてこいなどと無茶を言われないだけマシだといえばその通りだが、こちらは四十の祝いも済み、そう若いとは言えない年になった。無茶は出来かねる。

それなのに、あの大王様はこの爺をずいぶんと扱き使ってくれるものだ。

「おかげで、毎度毎度死ぬ思いだぞ己は」

下から吹き上げてくる風がなんとも言えず、生暖かい。
まるで手招きしているようでもある。
実際あの手が招いてもいるのだろ。唐渡りの焼き物のような白の色だ。

『毎回毎回、死にに来てるようなもんじゃないの』

ニヤリと笑う顔が思い浮かんだ。想像の中とは言え、実に可愛げのないことを言う。もっとときめくようなことを言ってほしいものだが、それではただの妄想の偽物だ。
辛辣の度合いはそのおまけの子の方が上だが、王の方が付け入る隙がない分厄介だ。
確かにヤツの言う通りではあるだろう。本来ならば、一度だけ行く場所に往来を繰り返す。
酔狂以外の何者でもない。野狂も格上げしてもらわなくてはなるまい。

夜もとうに、その濃さを増し、木々の輪郭も曖昧になっておる。
いかんせん暗すぎるのだ。一寸先どころか、その半分の先をもわからいようなもの。好き勝手に根を張り巡らせる木に足などとられようものなら、地面と仲良しこよしになってしまう。

だからといって、松明や灯りなど持ち込もうものならば、鬼が出たか蛇が出たかと噂になり、たちまち物忌みか方違えを宣告される。
無理矢理屋敷に閉じ込められ、出勤出来ないときてはあの困った大王様のご機嫌も急降下。

今日とていつもより早いが、今頃ぷんすか湯気をたてているだろう。始業時間に間に合う時は間に合うが、中途半端な遅刻も珍しい。
本格的に遅刻する時には煮えたぎったものも冷えるのか、一言小言を言われるだけなのだが、公平を絶対とする王様は中途半端だけは許せないらしい。だからと言って、ここでぼんやり暇をつぶしていては、バレた時に面倒だ。
何せお相手は、どんな嘘をも看破する地獄の王様閻魔大王ときておるのだから。
遅刻くらいで舌を抜かれては面白くもない。もっと大それたことをした時のためにとっておこうと心に決めておる。

石の縁に足をかけ、細い柱に手をやる。下には黒々とした闇がぽっかりと口をあけている。急速落下もいいところだ。滑り降りる地面に、狩衣の裾が擦りきれないのか、毎度のことながら心配になってしまう。

「黄泉平坂の方がまだなだらかであろうよ」

精一杯に皮肉って、その闇に落ちた。


で、毎度のことながら、この衝撃。尻が爆発したかと思うほど痛い。いきなり明るいところにくると目にもいけない。
そして、予想通りの第二波は当然のように腰にやってくる。

「ゲフッ」

「いらっしゃい、篁。
今日も今日とで重役出勤だね」

薄色を纏う男は赤い目を歪ませる。
実にすてきな笑顔だ。
しかし、出来れば違う角度から見せてほしい。仰ぎ見るにしても、正面がいいものだ。

「…毎度、死ぬ思いをしてまで来てやってるのにこの老体を藁座にするとはご挨拶だな。
大体、今日はいつもの遅刻よりは早いではないか」

「うん、それもそうだね。いつもなら帝規模だけど、今日のは左の大臣クラスかな?
オレとしても座り心地が悪くていやなんだけど、遅刻は遅刻。一刹那だろうが遅刻には変わりないの。これで今月はめでたく半分を超えましたー。残り十日もあるってのに」

「残りは善処するから、勘弁してくれまいか」

否、と言うようにぎゅむり、薄い尻が腰骨の上に落ち着いた。
同じ年頃に見える己の倅よりかはずうっと軽い。ただ、肉のない分刺さる骨が痛いのである。

「今のオレは機嫌が悪いんだよ。この時この瞬間の半刻だけだってのに運が悪いね。
まったく。君は間が悪い方じゃないと思ってたのに、とんだ見込み違いだ」

吐き捨てる顔はまるっきりふくれっ面だ。
その肘がぐりっと脇腹を抉った。子供のように小さな尖りである。何を食してこのような体が出来上がるのか、不思議でならぬ。
背はずいぶんと高いのに、まるでどこぞの女子のようだ。

「男の上に乗るとははしたないですぞ、おひいさま」

「誰がおひいさまだよ…ついてるの知ってるだろ」

「おう。ついてなかったら、遅刻などせんよ。
 女人を待たせるのは、己の矜持が許さん」

「さすが女たらし」

しどけなく弾く琴の声音に、真白の肌と艶やかな黒髪。世の女子が見たら、さぞ羨むだろう色に恵まれながら、どうにもお行儀が悪い。
脚を組んで、完全に椅子扱いときた。どうやらいつもとはご機嫌の悪さの質が違うらしい。

見上げる冥王はなにやら変わった形の杯を手に、すっかり落ち着いてしまっている。座り心地が悪いのなんのとうるさいわりに、堪えられないような場所には座らない。優しいのか単に甚振りたいだけなのか、まるでわからん。

前々から揃えさせてほしいと嘆願している切られっぱなしの髪が、王の機嫌を表すようにピンピン揺れた。杯からもうもうと上がる湯気にもまるで萎れない。

「可愛げがないぞ、実に嘆かわしい。少しはぷりてぃになれぷりてぃに。
黄泉の王者にも愛嬌は必要だと進言する」

「必要があるならとっくにそうなってる」

ムッと言いながら、両手に包んだ杯をこくりと飲んだ。そのさまだけを見るならば、童のようで可愛いと言えなくはない。
が、いかんせんお顔の方がいただけない。
口を付ける度に、細い眉を思いっきり顰めて、瞳孔まで縮こまる。実に渋い顔を作る。

「おーい、鬼男ちゃーん、とうとう閻魔の杯に雑巾の絞り汁をいれたのか」

「入れてません」

すぐ後ろの方で鋭い切り返し。
紙を繰る音。どうやら傍観を決め込んでいるようだ。

「そこにいたのか鬼男ちゃーん。
おはよう」

「おはようございます。クソムラ殿」

間髪入れずに先ほどの鋭い声が返る。
引き弓の音に似ておる。ビンと空気を震わす力強い音だ。語気は強く、少しばかり、主君のそれと似ていなくもない。

「おーおー。今日も主従揃って元気なことよ。
おじちゃんは嬉しいぞ。できればおいたは止めにして、優しく労わってほしいものだ」

この変態二号が、と鬼の子が呟いたのが聞こえた。手厳しいことである。

「アンタが遅刻するせいで、仕事が進まないんです。サッサとそのイカ除去して所定の位置に戻ってください、ご老体」

後ろから出てきた腕が、ポツンと離れたところに置いてある藁座を指す。
鬼の定位置を挟んで、王とは三尋はある。

「鬼男ちゃんはお前さまより虫の居所がよくないとみゆる」

「あの子はいっつもああだよ。
もうすぐ飲み終わるから、それまで反省しなさい」

いよいよ杯を持ち上げて、薬湯でも飲むかのように顔をしかめる。見ているこっちの舌が苦くなってくるような顔だ。
もうもうと立ち上る白い湯気も、どちらかと言えば、煙に近い。金気臭さが鼻を突く。何の、臭いであろうか。

「いつもながら、まっずいな」

顔を歪めるくせに、どうやら最後まで飲みきったらしかった。そうして言葉どおりに立ち上がる。己よりは頭の半分は小さい王は、ふうっと溜め息をついて見せた。

「おい。それは唐の新しい健康法か?」

「いいや。そんないいもんじゃないよ。
これはね、忠誠心を諮る為の嫌がらせ」

やっぱり読んだことないか、と皮肉っぽく笑う。
手の中の杯は妙に年代がかっており、新しいものには見えない。その上、かなりの質量を伴っているらしい、おそらくは鉄製であろう。細工の彫りが微に入りおどろおどろしいほどだ。
それを両手に王は不機嫌な顔をさらす。子に難解なものを説明せよと言われた親の顔だ。

「私は人を裁く、そうして半分くらいは地獄に落とすでしょ」

「まあ、それが仕事だからな。寧ろ基本と言ってもよい」

でしょ?と嗤い、杯を掲げる。

「ところが、だ。
人が地獄にいかなくてはならないのは、地獄の主宰者である私のせいで罪であるらしい」

「すごい逆転発想よのう」

まあ、理由など、どうとでもなってしまうだろう。
そこで、と王は恭しく杯を掲げた。

「これを飲んだらその罪を贖えるってことらしいんだ。
人間側の少数意見なのに、上が存外この思いつきを気に入っちゃってね。
一日三回必ず服用せよって、大量に送りつけられて、消費しないと部屋の床を抜きそうなんだよ」

「はあん。とすると、美味いはずがないな。
お前さまのことだから、てっきり甘いものかと思ったのだが。それで結局、それはなんだ?」

「銅だよ。どろっどろに融けた銅。
千八十度とかそれくらいじゃなかったかな。あ、鬼男君、これ、片づけてきて」

重たそうな杯を秘書に手渡す。
細身だが逞しい腕が伸びる。ひょいっと片手でそれを受け取るなり、たったか行ってしまった。銀色の頭がブレもせず遠ざかっていく。
常々のことながら、なんとも愛想のない子である。なりたての牛車引きの方が、まだとっつきやすいだろう。

「して、それは苦いのか」

「叫喚地獄あたりに落ちたらわかるんじゃないのー?」

そういう罰もあるし、と王は微笑む。
支配者然としたそれは、残念ながら我らが主上では到底及ばないだろう。拝した途端にぶるっちまうに違いない。我ながら、不遜なことを考えるものだ。

「あいにく、己は地獄にも天国にも行けぬ身だ。
この身が知覚することはなくとも、いずれは体験はしようぞ」

それもそうだね、と今度は唇の片側だけをつり上げる。皮肉っぽい微笑みは、不思議とあまり似合うものじゃない。
以前、というほど以前のことからでもないが、合いすぎていたこの表情に、違和感を感じることがあろうとは。

「そこの書類とって」

「おう。今日も多いよのう。古事記のイザナミノミコトもまだ謙遜したらしいと見える。
そうだ。一つ言っておきたいことがあったのだ。お前さまも夜の勤めで疲れてるのかもしれんが、まあ聞け」

顔を上げず、書類を受け取る王の頭。冠を戴いていると、その小ささが殊更に目立ってしまう。
人差し指だけでひと抱えはあるような、そんなものの実態がこれだ。笑ってしまう。

「鬼男ちゃんを、あまりからかってやるな。
どうせ、寝起きの不機嫌にかまけてなんかやったのだろ?」

「なんにもしてないよーだ」

明るく言うが、はてそれはどうであろうな。己の時は誘惑されたぞ?
酒を酌み交わした翌日、起きてみると着替えをするとかで、目の前で素っ裸になられたのだっけか。押し倒したら思いっきりはり倒されたが。
いつもより随分と遠い位置におった、あの鬼っ子にも、どうせまた、色仕掛けの後で怖い顔でもしてやったのだろう。

「お前さまは気に入るほどいたぶりがちなようだから。度が過ぎると嫌われるぞ」

「なにそれ、ある意味自惚れ?」

漸く皮肉以外の顔を浮かべて、くすくす笑う。やっぱり、少しはあるではないかと思うのだ、可愛げが。

「おうともよ。
伊達に長く生きとらん。己の目に狂いはないとの自負はある」

「ふーん。じゃあ、オレが今何してほしいかもわかる?」

「諾」

袂を探る。
目当てのものは、確かに入れてきた筈だ。
期待にか光る赤に、やはり微笑ましいものを感じてしまう。可笑しな話といえば、可笑しな話だ。
神と、人間。
それ以上でも、以下でもないというのに。

「ほれ」

小さい口に、それを入れる。
これだってなんらかしらの薬の筈なのだが、好んで摂取している。贅沢なことよ。

「ところで閻魔大王よ、お前さま、最近己の見ていなかったところで何者か食ろうたか?」

「最近ってどのくらいの範囲での話?」

「鬼男ちゃんを秘書にしてから、の意味で訊いておる」

硯の海に筆を浸しながら、王は小首を傾げた。

「いいや。その意味なら食べてない。最後に食べたのは、篁がきたばっかりの、十年くらい前かな。その後はそういう命令もないしね。君をキープしてるだけだよ。
なんで?」

本当に、心当たりがないのか、不思議そうにこちらを見上げた。

「いいや。
気にするな。こっちのことだ。
お、そろそろ鬼男ちゃんも帰ってくるな。お仕事をしようじゃあないか」

「なんだよそれ…今日は久しぶりに居残りで付き合えよ篁。
何考えてるか吐かせてやる」

「ふむ。
屋敷まで送ってくれるなら考えてやらんでもない」

本ッ当にいい度胸だよ、人間のくせにと王は呆れたように笑った。




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